与謝蕪村 (講談社学術文庫)
振り返って見ると、この本の鑑賞篇の1と2はすばらしく、ここを読むだけでも買う価値はあるのではないかと思います。しかし、全体をみると安東次男の蕪村論はかなりくせがあります。たとえば「離俗論」や「新体詩」、あるいは蕪村連句の付け合いに関する記述については、何ヵ所かでふれられてはいるのですが、言及にはおよんでいません。彼はやはりフランス語の学習でつちかわれた“イメージの重層性”を日本語にどう移植するのかが気になるようです。芭蕉では連句の付け合いにそれをみていたのですが、蕪村では、空間あるいは時間認識の異なるふたつのイメージが、ひとつの思考のなかに同居しようとする瞬間に、“イメージの重層性”をみようとしているようです。そうしたふたつのイメージのことを“遅速”あるいは“弛緩と緊張”とよんでいます。鑑賞篇の1と2の何ヶ所かで言及されていますし、彼の詩集 calendrier の『道化』には“遅日”、“弛緩”という言葉で、それは出現します。もうひとつの特徴としては、『澱河歌の周辺』で、あれほどまでに二つの川が合流する風景に女体幻想をいだいていたのに、『春風馬堤曲新釈』ではそうした態度がみられないことです。もしも『澱河歌の周辺』の視線に立つならば、“春風馬堤曲”こそ性の象徴にあふれていると思います。それは多くの人が指摘することです。私はこの蕪村論を読んでから“春風馬堤曲”を思春期から三才児の世界へ、乳幼児の世界へ、またさらに胎内への回帰(退行)していくドラマとして読むようになりました。茨に傷つき内腿から流れ出た血は初潮(思春期)を意味し、突然出現する牝猫と雛は言語を獲得する三才児期(エディプス期)の精神的不安定性をあらわし、さらにそこから進むと乳幼児の世界にはいるので、時間認識も言葉の記憶もなくなります。“行々て又行々”ても家に到着せず、故郷の家が“はじめて見る故園の家”となり、そこに父が存在しないのはこのためだと思います。こうした象徴を利用した世界認識をするために言語は必要ありません。乳幼児以前のヒトや、言語をもたない生物もこうした象徴を利用しての世界認識をして、生殖・捕食活動をしているわけなのですから。安東次男は徹底して三才児以降の世界に、言語の世界に、そのイメージの重層性の世界のなかに生きているのだと思います。だから彼は言語以前に存在している、象徴の世界がわかりません。逆にいうと安東次男の言葉の世界はゆがんだ部分がなく、清浄で透明なのです。そして、欠陥がありません。安東次男の評論は、エキサイティングで読むものの視点を変えてしまうとでもいうのか…。うーん、この本は面白い!
郷愁の詩人 与謝蕪村 (岩波文庫)
今時、萩原朔太郎という作家の本を読んでいる若者はどれくらいいるのだろうか・・・。
かくいう私も、20年くらい朔太郎を読んでいない有様であった。与謝蕪村について書かれた
この本は、朔太郎らしいリリシズムにみちた俳句の解説がほとんどである。読んでいるうちに、私は蕪村の俳句の世界に引きずり込まれていくようだった。蕪村は、ほとんど読んだことがない私であるが、蕪村初心者でも、わりととっつきやすい本だったと思う。昔ののどかな日本の風景のなかにいるような気分になる一冊であった。
与謝蕪村 (新潮日本美術文庫)
カラーページが多く、とても充実した内容です。与謝蕪村のこうした美術作品の書籍は高額なものが多いのですが、この本は低価格で内容も満足のいくものです。与謝蕪村初心者にはおすすめです。