体系的に学ぶ 安全なWebアプリケーションの作り方 脆弱性が生まれる原理と対策の実践
レビューワーを公募して、その筋に関係ある人を巻き込んで、完成したスキの無い本。
かといって、技術にばかり傾倒している訳でもなく、幅広い分野に対応しすごく読みやすい。
図表と文のバランスもよく、ワンポイントで参照するにも便利。
とりあえず初心者にはこれかっとけ→「プロになるためのWeb技術入門」 ――なぜ、あなたはWebシステムを開発できないのかとおすすめできるように、Webアプリでセキュリティが気になるやつはこれ買っとけ! 損はしないぜ! って感じです。
Nessus入門(ネットワーク脆弱性試験ツール活用術)
Nessusは有料だとばかり思い込んでいたが、無料でも使えることを、恥ずかしながらこの本で初めて知った。
仮想アプライアンスなど高機能は無料では使えないが、プラグインは有料と無料とで区別されているわけではなく
無料版でも4万個以上ものプラグインが使えるようだ。
ところで本の説明はきわめて分かり易く、入門と銘打っているだけあって用語の解説も親切に施されている。
また、プラグイン、ファミリー、ポリシーというNessus特有の機能についても、
この3者の関係を図などで説明してくれているので助かった。
兎にも角にも、ウイルス対策ソフトだけでは安心できないこのご時世、
このツールを使わない手はないだろう。
この本は、自分にとって、それを気づかせてくれた価値ある一冊であった。
脆弱なる絶対―キリスト教の遺産と資本主義の超克
タイトルから著者がキリスト教批判を展開していると性急に考えてはならない。むしろ副題が示唆するように、キリスト教の遺産を読み解くことを通じて、資本主義の暴力から脱出する方途をジジェクは探っているのだ。
本書の姿勢は、解放の活動そのものである啓蒙の到達点をフロイト流に表現した次の言葉が的確に表現している。「エスのあったところに、自我が生じなければならない」。
今日の「エス」にあたるものは何か。それは、<ニューエイジ>的イデオロギーや「犠牲者化」のイデオロギーや「第三の道」政治であり、それらは「グローバルな資本主義」に迎合したイデオロギーとして本書で批判されている。
反対にそこに「生じなければならない」のは何か。ジジェクによれば、ラカン派精神分析とマルクス主義的伝統の結合という起爆剤の爆発が生み出すダイナミックな自由である。この二つの結合が本書で著者が展開する批判を支える原理となる。とりわけ、本書においては三つの概念、すなわちマルクスの「剰余価値」、ラカンの「剰余享楽」、フロイトの「超自我のパラドクス」のあいだの内的な結びつきを軸にして構成されている。更にジジェクは、パウロが「ローマ人への手紙」において指摘する「法の悪循環」(ローマ7:7)の中に、これらの概念と同様の構造を見いだす。
本書のクライマックスにおいてジジェクは、パウロをラカン的に読むことを通して、「超自我=法」の転覆を理論化している。言い換えればそれは、キリスト教が本来持っている基本的な課題でもある、<愛>を通じて<法>と侵犯との超自我的な悪循環から脱出することである。
「法の転覆」といったときに、「禁止を破る」ことを人は思い浮かべるかもしれない。けれども、これは法を支える内在的な逸脱である。これよりもはるかに転覆的で過激なのは、法によって許されていることを、すなわち既存の秩序が明確に容認していることを、単純に行うことである。「銀行強盗をすることは、銀行を設立することに比べてなんて穏やかなのか」というブレヒトの警句をもじって言えば、<法>に対する侵犯行為は、<法>に徹底的に従うことに比べてなんて穏やかなのか、ということだ。これを文字通り実行して殺されてしまったのがイエス・キリストである。「律法」に対する侵犯行為は、「律法」に徹底的に従うことに比べてなんて穏やかなのか。キリストに最も近づいた者であるアシジの聖フランチェスコを想起しよう。
注意したいことが二つある。一つは、キリスト教会と言った時、著者がカトリック教会を念頭に置いていることだ。おそらくスロヴェニアがカトリックであるためだろう。だからといって、本書の価値が減じるわけではない。パウロ書簡のラカン的読解は刺激的である。
もう一つ、聖書の日本語訳はいくつか定訳があるにもかかわらず、訳者が新共同訳・口語訳・新改訳のどれをも参照せず私訳をしていることと、なぜ定訳を用いていないのかの説明を全く行っていないことが気にかかった。だから、読者はパウロについての著者の議論を丁寧に追うためにも、新共同訳聖書を座右に置くことを、私はお勧めしたい。