機械・春は馬車に乗って (新潮文庫)
「機械」の主人公である「私」は、我がことさえも客観的に見る癖があります。
また、独りよがりに深読みし、思考の迷路に迷い込み、わざわざ問題を複雑にします。
主人公が働く工場の主人は、依頼先から売り上げ金を受け取ると、必ずどこかに落とします。
なぜかはわかりません。機械の如く為せる業なのですから。
全従業員である三人、「私」と軽部、屋敷がフル稼働して納期に間に合わせた
せっかくの大口の仕事の売り上げ金も、やはり落としてしまわれました。
三人はその日、やけ酒をあおり、土瓶の水を飲もうとした屋敷が、誤って劇薬を飲み
死亡します。
普通に考えれば事故なのですが、仕事でけん制し合っていた軽部と、ひいては「私」にも
屋敷を毒殺する動機も機会もあったではないかと、主人公は際限のない猜疑心に苛まれるのです。
「春は馬車に乗って」は健在であったなら、確執の果てに別れていたであろう
夫婦が、妻の臨終になって、わずかに心を通わせる、はかなくも美しい短編です。
うららかな春の光や花の彩りが、別れの切なさと対比します。夫婦って不思議。
時間のかかる読書―横光利一『機械』を巡る素晴らしきぐずぐず
宮沢氏の独特の切り口や表現等、氏のエッセイに繋がる部分はあるものの、そちらのファンだという人には厳しいかと思う。
本の読み方には色々ある、しかし、宮沢氏の「一つの短編小説を11年以上かけて読む」という行為は(流石に実際に数行ずつ読んでいるわけではなく、毎月毎月通して読んでいるとラジオで語っていましたが)質の悪い冗談にしか思えないし(宮沢氏もどんな種類の冗談なんだと記してますが)一体何が目的なんだと訝しく感じてしまう。
二つの指針として「なかなか読み出さない」「できるだけ長いあいだ読み続ける」を決めたのは、いまとなってはもうわからない。と宮沢氏は述べていますが、いまとなってはではなく、多分その時も理由はなかったはずだと。多分、なんとなくそうしたのであって、意図があってそう決めたのであれば、それは「冗談」ではなく「つまらない実験」になっているはずで。
劇作家の視点で「機械」を解体、構築しているのは確かですけど、そこにあるのは「書評」でも「研究」でもない、ただの読書。それも圧倒的に時間をかけての。
一体何が起きているのか、結局なんだったんだ?と、読書の迷宮から抜け出せず、困惑してしまいました。
宮沢氏はあとがきで「誤読」という表現をしていますが、それがなければ私は今でも迷宮から抜け出せなかったはず。
しかし、本当に連載4回目まで「機械」を読み出さないというのにはやられました。始めると言って始めない、こんな気持ちのよい「ぐずぐず」が存在するとは。
まあ、こんな連載を書く方も、載せる方もどうかしている(褒め言葉)としか思えない、奇跡の一冊。
日輪・春は馬車に乗って 他八篇 (岩波文庫 緑75-1)
新感覚派の旗手、横光利一の代表的な短-中篇をまとめた作品集。志賀直哉に私淑し川端康成を盟友とする横光ですが、真摯な思索を重ねて独自の作風を探り、彼らに匹敵する作品を発表しました。斬新な表現、実験的な試みには今なお新鮮さと説得力があります。
『日輪』『蠅』は横光のデビュー作。前者は卑弥呼をめぐる古代の男たちの闘争を独特なリズムの台詞と硬質な文体で描いた雄大な作品。面白いのですが、やや気負いと硬さが感じられます。後者は蠅の視点から微細な描写が積み重ねられるモンタージュ的な作品ですが、最後の数行で破滅的な結末へと集約し、目の醒めるような鮮やかさがあります。
『機械』はヨーロッパ心理主義文学の影響の下に書かれています。しかしその技法は慎重な考究によって厳しく鍛錬され、新たな問題を提起するに到ります。文章は一人称の「私」によって書かれているのですが、精密な心理描写によって客体化されてしまい、それではこの物語を報告する主体は何者なのだろう、と考えさせてしまう。「私」や「自由意志」といった概念の虚構性が肌で感じられて、ちょっと怖くなりました。
『春は馬車に乗って』『花園の思想』は著者の体験が核になったある種のサナトリウム文学ですが、このジャンル特有の青臭い過剰な詠嘆が苦手で、個人的には馴染めませんでした。ただし、両者は同時期に書かれていながら対照的な作風であり、終盤に「恍惚として」という言葉が互いに異なる意味合いを匂わせて用いられているあたり、最初から一対の作品として構想されていたように思えます。このように私小説的な主題を非私小説的な技法で表現みせるのは、やはり横光らしく思えます。
その他に『火』『笑われた子』『赤い着物』等。いずれも簡素でありながらどこかシュールで、著者の非凡さが窺われます。
新感覚派のみならず近代日本文学の歩みを知るには避けて通れない一冊。ぜひ一読をお奨めします。