らき☆すた キャラクターソング 8
聞いてると、頭の中でパティが浮かんでくるほど、パワフルな曲。
1曲目が一番気に入ってます。
まさか、「ハレ晴レユカイ」と「最強パレパレード」とゆう言葉
が入るとは思ってませんでした。
3曲目もテンポがよくって、ずっと頭グルグル回ってます(笑)
あたしも最後の「みくるビーム」には笑いました。
1曲目が一番気に入ってます。
まさか、「ハレ晴レユカイ」と「最強パレパレード」とゆう言葉
が入るとは思ってませんでした。
3曲目もテンポがよくって、ずっと頭グルグル回ってます(笑)
あたしも最後の「みくるビーム」には笑いました。
ジュエルペットてぃんくる☆DVDブック 2
ジュエルペットのTVシリーズが4話入ったDVDを小さなブックレットと一緒にパッケージングしたものです。
ディアゴスティーニの模型つきブックレットの模型がDVDになって、小冊子がボリュームを縮小してジュエルペットの小さなブックレットになった感じです。
DVDが目的ならよいですが、読み物として捉えるとページ数の少なさに驚きますが、子供が飽きずに読むにはちょうどよい分量だと思います。
字が読める保育園の年中さんから小学校3年生くらいまでの女の子向けかな。
ディアゴスティーニの模型つきブックレットの模型がDVDになって、小冊子がボリュームを縮小してジュエルペットの小さなブックレットになった感じです。
DVDが目的ならよいですが、読み物として捉えるとページ数の少なさに驚きますが、子供が飽きずに読むにはちょうどよい分量だと思います。
字が読める保育園の年中さんから小学校3年生くらいまでの女の子向けかな。
TVアニメ「僕等がいた」Vocal Album 永遠
アニメ中の重要な場面で使われていた曲が多いこともあり、アニメの世界にどっぷり浸れます。七美役(声)のささきのぞみさん作詞・歌の「メリーゴーラウンド」が、もっとも印象に残りました。
光厳天皇: をさまらぬ世のための身ぞうれはしき (ミネルヴァ日本評伝選)
ミネルヴァ日本評伝選は読んだ限りでは外れがあまりないが、カバーにあるように「没後六百五十年記念出版」に合わせて刊行したものだ。最初の頃の目録には光厳院は書かれていないので、途中で加わったと見える。
光厳院については西野妙子著「光厳院」をはじめ、目につくものは大体読んだつもりだが、「歴史上何となく影がうすい。」(村松剛著「帝王後醍醐」文庫版184頁)存在であった「光厳院」に光が当たるようになったのは、比較的近年になってからだ。南朝正統論の立場を取る皇国史観では光厳院をはじめ、北朝の歴代は鎌倉幕府と足利尊氏に擁立された「閏位」であり、「天皇」ではなく「院」で表記される存在だった。かといって藤原仲麻呂に擁立された氷上塩焼のように正面切って否認が出来ない存在でもあった。
相続について一定の原則がない大覚寺統と違って、持明院統は嫡子相続を取っていたので、量仁親王(光厳天皇)は正嫡として生まれて、正平の一統までは家長として振る舞ってきた。その光厳院が正平の一統破綻後に南朝に拉致されて、足利氏によって後光厳天皇が擁立された後は、全てを捨てかのように落飾される。「太平記」に書かれているように、そこからが光厳院の魅力だと言ってもよい。
他の本と違って、この本は光厳院への太上天皇号の宣下は小一条院の前例に倣っての事と紹介されている。「神皇正統記」には光厳院を「元弘偽主」と書いているように、元弘と正平の二度の一統に際して、後醍醐・後村上の両代は京都の朝廷が下した全ての官位を否認したが、光厳、光明、崇光の三代に対しては太上天皇号を宣下している。後光厳天皇擁立後は「偽朝」と存在自体を強く否定しているのに、正平の一統までは持明院統に対する融和策としても正面切って否認は出来なかったらしい。おそらく、光厳天皇は後伏見院の院宣によって践祚されたので、もし否認すれば後白河院の院宣で践祚された後鳥羽天皇をはじめ、承久の乱で践祚された後堀河天皇などの皇位を否認しないと論理的につじつまが合わなくなるからだろう。「しかし政治を離れて純粋な形式論から見れば、光厳院は正規の手続きを踏んで登極した天皇だった。」(「帝王後醍醐」203頁)ここが観応までの持明院統の朝廷の持つ強みであり、広義門院の令旨によって践祚した後光厳天皇の弱みだった。
光明天皇は「一代主」として践祚された「中継ぎ」の天皇という意味では叔父の花園天皇と同じだが、崇光天皇は持明院統の正嫡として意識を生涯持っていたが、正平の一統で廃位されて延文に解放された時に南朝から一筆書かされたからか、没義道な幕府が正統性を主張するために擁立した後光厳天皇に負い目があったからか、生涯報われなかった。一方、後光厳天皇は正平の一統の破綻後、幕府によって擁立されたが、「一代主」として振る舞わず、自らが「正統な天皇」として行動した。こうして見ると「日陰」のような扱いをされる北朝の歴代も結構個性が強い存在だが、南朝の天皇の方が、もっと個性的なので目立たなくなってしまう。それに持明院統の朝廷は嫡子相続と共に基本的に院政を取っている(後光厳天皇朝は天皇親政になるが)ので、治天の君以外は表に出て来ない構造になっている。
光厳院については西野妙子著「光厳院」をはじめ、目につくものは大体読んだつもりだが、「歴史上何となく影がうすい。」(村松剛著「帝王後醍醐」文庫版184頁)存在であった「光厳院」に光が当たるようになったのは、比較的近年になってからだ。南朝正統論の立場を取る皇国史観では光厳院をはじめ、北朝の歴代は鎌倉幕府と足利尊氏に擁立された「閏位」であり、「天皇」ではなく「院」で表記される存在だった。かといって藤原仲麻呂に擁立された氷上塩焼のように正面切って否認が出来ない存在でもあった。
相続について一定の原則がない大覚寺統と違って、持明院統は嫡子相続を取っていたので、量仁親王(光厳天皇)は正嫡として生まれて、正平の一統までは家長として振る舞ってきた。その光厳院が正平の一統破綻後に南朝に拉致されて、足利氏によって後光厳天皇が擁立された後は、全てを捨てかのように落飾される。「太平記」に書かれているように、そこからが光厳院の魅力だと言ってもよい。
他の本と違って、この本は光厳院への太上天皇号の宣下は小一条院の前例に倣っての事と紹介されている。「神皇正統記」には光厳院を「元弘偽主」と書いているように、元弘と正平の二度の一統に際して、後醍醐・後村上の両代は京都の朝廷が下した全ての官位を否認したが、光厳、光明、崇光の三代に対しては太上天皇号を宣下している。後光厳天皇擁立後は「偽朝」と存在自体を強く否定しているのに、正平の一統までは持明院統に対する融和策としても正面切って否認は出来なかったらしい。おそらく、光厳天皇は後伏見院の院宣によって践祚されたので、もし否認すれば後白河院の院宣で践祚された後鳥羽天皇をはじめ、承久の乱で践祚された後堀河天皇などの皇位を否認しないと論理的につじつまが合わなくなるからだろう。「しかし政治を離れて純粋な形式論から見れば、光厳院は正規の手続きを踏んで登極した天皇だった。」(「帝王後醍醐」203頁)ここが観応までの持明院統の朝廷の持つ強みであり、広義門院の令旨によって践祚した後光厳天皇の弱みだった。
光明天皇は「一代主」として践祚された「中継ぎ」の天皇という意味では叔父の花園天皇と同じだが、崇光天皇は持明院統の正嫡として意識を生涯持っていたが、正平の一統で廃位されて延文に解放された時に南朝から一筆書かされたからか、没義道な幕府が正統性を主張するために擁立した後光厳天皇に負い目があったからか、生涯報われなかった。一方、後光厳天皇は正平の一統の破綻後、幕府によって擁立されたが、「一代主」として振る舞わず、自らが「正統な天皇」として行動した。こうして見ると「日陰」のような扱いをされる北朝の歴代も結構個性が強い存在だが、南朝の天皇の方が、もっと個性的なので目立たなくなってしまう。それに持明院統の朝廷は嫡子相続と共に基本的に院政を取っている(後光厳天皇朝は天皇親政になるが)ので、治天の君以外は表に出て来ない構造になっている。