信長の野望・創造
とりあえず発売日から30時間ほどプレイした感想を。
チュートリアルもそこそこに、一番最初にプレイしたのは桶狭間の戦いで難易度は中級。大名は南部家。
まず思ったのが支城の多さ。初期の段階でどの大名勢力にも本城が1つに対して必ず1つ以上の支城、多いところでは3〜4つほど支城がある勢力もある。
2つ目は内政。内政はかなり簡略化され、開発、政策、取引の3つになった。
開発は従来通り、城下町に施設を建てるものである。
力を入れられるのは主に農業、商業、兵舎の3つ。それぞれ兵糧、金銭、兵力に繋がっている。
そしてそれぞれが数値化されており、支城では大体200〜300、本城では500程度というのが上限値である。
政策は、名前の通りその大名勢力がなにに力を入れるか、というのを決めるものである。
商人と兵糧、馬、鉄砲などのやり取りをするのが取引で、前作の天道とは違い、1ヶ月で必ず訪れるようになっている。
開発に関して言うと、最初は小規模の施設しか作れないが、開発を重ねていくことによって、より効率の良い施設に建て替えられるというシステムになっていた。
そして今作では、"人口"という概念があり、町に住んでいる人の人数の多さも一つポイントになっているらしい。
人口がある程度増えると、城下町を拡張することが出来、新たに施設が建てられる場所を増やせる、というものになっていた。
拡張する際に、上記の農業、商業、兵舎のいずれかの数値の上限を300〜500ほど増やすことが出来る。(拡張できるのは本城だけ)
なるほどこんな感じになっているのか、とまったりプレイしていたが、どうにも兵糧、金銭、兵力。
全てなかなか増えていかない。城にいる兵力が最大でも本城の4000程度。募兵というシステムは無くなっていたのである。その代わり城に入れる最大値の兵数までは、戦で全滅しようが自動で少しずつ回復してくれていた。
相手の勢力もそんな兵数はいないので、いよいよ出陣。とりあえず本城と支城から少しずつ率いて挑んでみた。
自分の部隊と相手の部隊がぶつかった時に、今作から導入された"合戦モード"というのを、自分の武将アイコンをクリックしてやってみた。
…これはなかなか面白い。陣形が3つ、後退、静止、前進の3つのコマンド。
鉄砲打ち抜き、騎馬突進の2つのコマンド。そしてそれぞれの武将が持つ戦法。
使うのはたったこれだけである。
こちらが陣形を変え、前進すると、兵数で下回る相手の部隊が後退し、戦法を唱え、鉄砲打ち抜きをしてくる。なかなかにいやらしい。
こちらも陣形を変えて戦法を唱え、騎馬突進。後退し、打ち抜き。などをしていると相手の兵力がみるみる減っていく。
戦い方によってはこちらが不利であっても互角の展開に持ち込めるのではないか、と思った。
相手部隊が壊滅し、合戦モード終了。
こちらも兵数は減ったが、相手の城に兵はいない。勝った。と思ったが、いつまでも落城しない。
なんだこれはと思っていると、どうやら相手の城の耐久値以上の兵を引き連れていないと、どうやら城は落とせないらしい。(その時相手の城の耐久は3000、こちらの兵数は2400程度)
仕方なく撤退し、内政をこなしつつ再度攻城。今度はなんとか落とすことが出来た。
今回の創造では、天道で新しく出てきた街道システムが少しバージョンアップしていた。
天道では道を敷設して終了だったのが、今作ではもともと道は繋がっているが、山間部なら1→3まで。
平野部なら1→5までに街道を整備することができる。
前作で出来た前線基地へ兵を全て集めて突撃もしくは守りを固める、というのが今作は出来なくなっていた。
なので、城を攻略もしくは守る場合にこちらの戦力が足りなくなりそうな時、いかに迅速に他の城から兵を出陣させられるかというのがポイントである。
10万の単位でのバカげた野戦や攻城戦はなくなり、2000や3000、多くても2万や3万人程度での戦いになる。
2000人程度の兵でも街道を駆使し、挟撃出来れば局面も相当変化する。
逆に1つの街道しか使わずに攻め、数でゴリ押ししようと複数の部隊を率いても、その1つの街道で部隊が詰まってしまい、最初に到着した部隊だけが攻撃していて、後ろの部隊は兵糧を食っているだけ、という状態になってしまう。
非常に戦略を重視しているな、とやっていて思った。
相当ゆっくりプレイしていたのもあるが、最初の南部家のプレイで7年経ってようやく本城が4つになり、その時に勢力図を見て唖然とした。
近畿では織田が、中部には武田、北陸から越後にかけて上杉、関東に北条、中国に毛利、といった具合にほぼ勢力が確立されつつあった。もはや弱小勢力はほとんど残っていなかった。
この時点で南部家での天下統一は諦めた。
今度は島津家でプレイ。
内政よりもスピーディに進軍し、城を落とすことを考えプレイした。
10数年ほどで九州、四国を統一したとき、九州から山口にかけて勝手に武将が進軍していた。
またしてもなんだこれは、と思ったら、どうやら今作ではある程度勢力が大きくなり、統括できる範囲を超えたら軍団が自動で作らるらしい、そしてそれは解除することは出来ないみたいなのである。
なお、勝手に作られるとはいえ、大名の直轄地?を前線に設定し、軍団を後方に設定すれば軍団が進軍することは無く、自分でそのまま城を攻め落としていける。
なので前線でゴリゴリ進軍し、勝手に城を落としていっていたのだ。軍団のAIは相当レベルが高いらしく、本当にどんどん城を落としていく。
凄いな、と思いつつ少し観ていたが、楽しみが奪われては難なので、軍団は後方で落ち着いてもらった。
ある程度進んだところで織田の勢力とぶつかったのだが、この時に使った設営のコマンドが非常によかった。
設営というコマンドを使うことで、要所での合戦を有利にすることが出来る、というものだった。
最初の段階ですでに1あったが、コマンドを使って1から3にまであげた。
守っていた城は、織田側からは1方向からしか進軍出来ない城だったので、使ってみた次第である。
向こうの13000人の部隊に対し、こちらは4000人+挟撃3500人。ほぼ半分である。が、撃退に成功。
これが設営3の効果だったのか、挟撃のおかげだったのかはわからないが、相当な劣勢を跳ね返せた。
結局そのあとはあまり苦労もせず、AIの軍団もそこそこ使いつつ天下統一を達成。最終的に61年かかった。
ここまで長々と書いたが、革新、天道と続いた信長の野望の系譜からの作品とは思わないほうが良いかもしれない。
正直、腑に落ちない点は多々ある。改善点も多く見られる。
素人目にそう思うのだから、もう少し完成度を高めて出したほうが良かったのではないかとメーカー側も考えたかもしれない。(30周年ということでなんとか間に合わせたかったのかも知れないが)
もちろん、こういう改善点が多く見られる状態で出すのは許せないという人もいるのはわかるし、信長の野望として駄作だ、と感じる人がいるのもわかる。プレイしていて、ここはダメだろうと思うところがあるのも事実。
だが、新しい信長の野望として、こと"戦略"に目を向けたとき、街道や設営、兵数の少なさや合戦モード、外交。
有力武将個人の戦法による力での打開ではなく、あらゆる"戦略"を用いて兵力で大きく上回る相手をはね退けられる。その達成感は非常に良かった。
そういった意味での戦略SLGとして、信長の野望は次の段階に進んでいるのかなと思う。
チュートリアルもそこそこに、一番最初にプレイしたのは桶狭間の戦いで難易度は中級。大名は南部家。
まず思ったのが支城の多さ。初期の段階でどの大名勢力にも本城が1つに対して必ず1つ以上の支城、多いところでは3〜4つほど支城がある勢力もある。
2つ目は内政。内政はかなり簡略化され、開発、政策、取引の3つになった。
開発は従来通り、城下町に施設を建てるものである。
力を入れられるのは主に農業、商業、兵舎の3つ。それぞれ兵糧、金銭、兵力に繋がっている。
そしてそれぞれが数値化されており、支城では大体200〜300、本城では500程度というのが上限値である。
政策は、名前の通りその大名勢力がなにに力を入れるか、というのを決めるものである。
商人と兵糧、馬、鉄砲などのやり取りをするのが取引で、前作の天道とは違い、1ヶ月で必ず訪れるようになっている。
開発に関して言うと、最初は小規模の施設しか作れないが、開発を重ねていくことによって、より効率の良い施設に建て替えられるというシステムになっていた。
そして今作では、"人口"という概念があり、町に住んでいる人の人数の多さも一つポイントになっているらしい。
人口がある程度増えると、城下町を拡張することが出来、新たに施設が建てられる場所を増やせる、というものになっていた。
拡張する際に、上記の農業、商業、兵舎のいずれかの数値の上限を300〜500ほど増やすことが出来る。(拡張できるのは本城だけ)
なるほどこんな感じになっているのか、とまったりプレイしていたが、どうにも兵糧、金銭、兵力。
全てなかなか増えていかない。城にいる兵力が最大でも本城の4000程度。募兵というシステムは無くなっていたのである。その代わり城に入れる最大値の兵数までは、戦で全滅しようが自動で少しずつ回復してくれていた。
相手の勢力もそんな兵数はいないので、いよいよ出陣。とりあえず本城と支城から少しずつ率いて挑んでみた。
自分の部隊と相手の部隊がぶつかった時に、今作から導入された"合戦モード"というのを、自分の武将アイコンをクリックしてやってみた。
…これはなかなか面白い。陣形が3つ、後退、静止、前進の3つのコマンド。
鉄砲打ち抜き、騎馬突進の2つのコマンド。そしてそれぞれの武将が持つ戦法。
使うのはたったこれだけである。
こちらが陣形を変え、前進すると、兵数で下回る相手の部隊が後退し、戦法を唱え、鉄砲打ち抜きをしてくる。なかなかにいやらしい。
こちらも陣形を変えて戦法を唱え、騎馬突進。後退し、打ち抜き。などをしていると相手の兵力がみるみる減っていく。
戦い方によってはこちらが不利であっても互角の展開に持ち込めるのではないか、と思った。
相手部隊が壊滅し、合戦モード終了。
こちらも兵数は減ったが、相手の城に兵はいない。勝った。と思ったが、いつまでも落城しない。
なんだこれはと思っていると、どうやら相手の城の耐久値以上の兵を引き連れていないと、どうやら城は落とせないらしい。(その時相手の城の耐久は3000、こちらの兵数は2400程度)
仕方なく撤退し、内政をこなしつつ再度攻城。今度はなんとか落とすことが出来た。
今回の創造では、天道で新しく出てきた街道システムが少しバージョンアップしていた。
天道では道を敷設して終了だったのが、今作ではもともと道は繋がっているが、山間部なら1→3まで。
平野部なら1→5までに街道を整備することができる。
前作で出来た前線基地へ兵を全て集めて突撃もしくは守りを固める、というのが今作は出来なくなっていた。
なので、城を攻略もしくは守る場合にこちらの戦力が足りなくなりそうな時、いかに迅速に他の城から兵を出陣させられるかというのがポイントである。
10万の単位でのバカげた野戦や攻城戦はなくなり、2000や3000、多くても2万や3万人程度での戦いになる。
2000人程度の兵でも街道を駆使し、挟撃出来れば局面も相当変化する。
逆に1つの街道しか使わずに攻め、数でゴリ押ししようと複数の部隊を率いても、その1つの街道で部隊が詰まってしまい、最初に到着した部隊だけが攻撃していて、後ろの部隊は兵糧を食っているだけ、という状態になってしまう。
非常に戦略を重視しているな、とやっていて思った。
相当ゆっくりプレイしていたのもあるが、最初の南部家のプレイで7年経ってようやく本城が4つになり、その時に勢力図を見て唖然とした。
近畿では織田が、中部には武田、北陸から越後にかけて上杉、関東に北条、中国に毛利、といった具合にほぼ勢力が確立されつつあった。もはや弱小勢力はほとんど残っていなかった。
この時点で南部家での天下統一は諦めた。
今度は島津家でプレイ。
内政よりもスピーディに進軍し、城を落とすことを考えプレイした。
10数年ほどで九州、四国を統一したとき、九州から山口にかけて勝手に武将が進軍していた。
またしてもなんだこれは、と思ったら、どうやら今作ではある程度勢力が大きくなり、統括できる範囲を超えたら軍団が自動で作らるらしい、そしてそれは解除することは出来ないみたいなのである。
なお、勝手に作られるとはいえ、大名の直轄地?を前線に設定し、軍団を後方に設定すれば軍団が進軍することは無く、自分でそのまま城を攻め落としていける。
なので前線でゴリゴリ進軍し、勝手に城を落としていっていたのだ。軍団のAIは相当レベルが高いらしく、本当にどんどん城を落としていく。
凄いな、と思いつつ少し観ていたが、楽しみが奪われては難なので、軍団は後方で落ち着いてもらった。
ある程度進んだところで織田の勢力とぶつかったのだが、この時に使った設営のコマンドが非常によかった。
設営というコマンドを使うことで、要所での合戦を有利にすることが出来る、というものだった。
最初の段階ですでに1あったが、コマンドを使って1から3にまであげた。
守っていた城は、織田側からは1方向からしか進軍出来ない城だったので、使ってみた次第である。
向こうの13000人の部隊に対し、こちらは4000人+挟撃3500人。ほぼ半分である。が、撃退に成功。
これが設営3の効果だったのか、挟撃のおかげだったのかはわからないが、相当な劣勢を跳ね返せた。
結局そのあとはあまり苦労もせず、AIの軍団もそこそこ使いつつ天下統一を達成。最終的に61年かかった。
ここまで長々と書いたが、革新、天道と続いた信長の野望の系譜からの作品とは思わないほうが良いかもしれない。
正直、腑に落ちない点は多々ある。改善点も多く見られる。
素人目にそう思うのだから、もう少し完成度を高めて出したほうが良かったのではないかとメーカー側も考えたかもしれない。(30周年ということでなんとか間に合わせたかったのかも知れないが)
もちろん、こういう改善点が多く見られる状態で出すのは許せないという人もいるのはわかるし、信長の野望として駄作だ、と感じる人がいるのもわかる。プレイしていて、ここはダメだろうと思うところがあるのも事実。
だが、新しい信長の野望として、こと"戦略"に目を向けたとき、街道や設営、兵数の少なさや合戦モード、外交。
有力武将個人の戦法による力での打開ではなく、あらゆる"戦略"を用いて兵力で大きく上回る相手をはね退けられる。その達成感は非常に良かった。
そういった意味での戦略SLGとして、信長の野望は次の段階に進んでいるのかなと思う。
織田信長 (ちくま新書)
このページの上の「商品の説明」には、「時代に先駆けた思想をもち、伝統的権威や因習に因われずに『天下統一』を目指した『革命児』信長。だが、この広く行きわたったイメージは、はたして歴史的な事実といえるのだろうか?」と言う紹介に象徴されるように、本書は(細かな学説上の争点は別論として)従来巷間に語られてきた「天下布武」の解釈や「革命児」という信長像に懐疑的なスタンスから、信頼しうる様々な同時代史料を再検証しつつ実証的に「信長の真の姿を描く」ものと言える。著者の(従来巷間の)信長像に対する懐疑的なスタンスは一貫していて明確であり、例えば「天下」の意義の考察(98〜111頁)や正親町との関係性(京都馬揃えの意義:86〜92頁)など首肯できる考察もある。しかしながら最初に結論(従来説への否定・批判)ありきという方法の故か、多少強引ないし一面的な解釈も散見される(後述参照)。構成・内容は、このページの「登録情報」最下段の「目次を見る」の概略の通り、「はじめに」で「信長の箱」として(細かい部分での諸学説は格別)従来の巷間に観られる「革命児」や「天下統一」の野望と言った評価に対する懐疑を概説、6章からなる各論を展開した後で、「おわりに」では「桶狭間」の再考(研究)に観られる“ドラマ”性等を引き合いにしながら、従来巷間の信長像に疑問を呈する総括を行う。構成・内容はこのページの「登録情報」最下段の「目次を見る」に譲り、以下では個人的に興味を惹いた(または異論のある)トピックを幾つか取り上げたい。
まず著者は信長の岐阜時代以降に使用された「天下布武」の印判の「天下」の意義について、当時の情況と史料解釈などから、信長の意図する「天下」とはもっぱら「五畿内における将軍秩序樹立のスローガン」(110頁)と観る。これは確かに上洛時期の信長の勢力等(尾張・美濃、近江半国程度)から観れば、合理的かつ説得力のある解釈であると思う。ただ信長の生涯全てに渡ってどこまでも著者の描く「将軍秩序」、即ち「五畿内」という「天下」に服従ないし留まっていたかは疑問の残るところで、義昭追放後の信長の版図拡大は、著者の右「天下」解釈では合理的な説明に無理があるように思う。そもそも著者は各有力大名への信長の書状を、額面(文言)通りにその真意を解釈する傾向が強いが、当時の大名間書状が言わば“外交文書”という一面を考慮しないのは妥当ではない(195〜201頁ほかの解釈)。例えば元亀年間の浅井・朝倉と信長の対立は、元々義昭名に依る上洛命令を無視した朝倉征伐が端緒であり、後に比叡山を含めた和睦は信長側の不利を示すものではあったが、むしろ信長の手の内にある義昭の「上意」を巧みに利用した戦術と観る通説が妥当である。上洛後の信長は往々にして自己の窮地に正親町天皇の勅命に依る講和や綸旨を巧みに利用している(元亀元年、天正元年、天正8年など)。つまり義昭自身の権威というよりも、「五畿内」の「天下」において信長の武力で再興した事実上の“幕府を支える朝廷権威”の結果と観るべきであって、信長が「将軍の権威に守られる立場」にあった(46頁)と言うのは、些か過大な評価と言わざるを得ない。それならば信長自ら再興した幕府の役職に(最後まで)就かなかったことと、論理的な整合性が取れないからである。
当時信長の戦術につき表層的に解釈することが妥当でないのは、対毛利との戦略にも現れている。本書では、信長側との和睦交渉にあたった安国寺恵瓊の書状(天正8年5月)について考察があるが(132〜137頁)、この中で信長は(宇喜多直家の件は格別)著者の解釈通り、毛利との和睦を志向していると観うる。ここで著者は「信長はまごうことなき天下人であり、天下人とは、諸国の大名との和睦により平和の実現をめざす存在と認識されていた」と評するが、これは一面的な理解であると言うべきだろう。なぜなら同じ天正8年8月、島津義久宛の書状(島津・大友の和睦勧告)では「来年(信長が)安芸の毛利氏の討伐に出陣しようとする」旨が記されており(200頁)、実際大友氏は北九州にあって、毛利の背後を突く重要な戦略的位置にあったことからすれば、右書状は毛利征伐の計画を裏付けると観るべきだからである。表面上は毛利との和睦を探りつつも、他方で背後の敵(大友氏)に接近すると言う(当然にあってしかるべき)戦略が窺われるのである。石山合戦で毛利の援軍に苦しめられてきた経緯・情況と山陽・山陰地方情勢の天正8年頃を考慮すれば、著者の描くほど単純な「天下」情勢(和睦一筋の平和志向)ではないと言うべきだろう。著者はかかる2件の書状を参照しながらその関係性について何も解説していないが、巷間信長像の懐疑に拘泥するあまり、安土城時代以降に変遷していく信長の戦略の多面性の評価、ひいては「天下布武」の内実の変遷を見誤っているように思える。
またいわゆる「安土宗論」について、著者は信長が法華宗側に示した条件、つまり「負けた場合には京都及び信長分国中の法華宗寺院を破却されても構わないと連判状を出して臨む」べきこと、そして「それは余りに酷い条件だと思うなら、宗論を止めてこのまま帰る」べきことをして、「浄土宗との和解を斡旋」したこと、及び「法華宗の弾圧を意図した」ものでないと解している(176頁)。しかし右「宗論」は元々法華宗側が仕掛けたものであり(175頁)、法華宗側が自ら「宗論」を仕掛けておいて素直に引き下がれる道理にないこと(既に京都等から僧衆が参集)、右のような一方的な信長の条件提示に対して今更「宗論」を止めることなどできるはずもないのは、火を見るより明らかであろう。また『信長公記』(巻十二)には、信長配下に法華宗徒が多いことなどから信長が調停に乗り出したことが記されており、「法華宗の弾圧を意図した」ものかは別論として、法華宗が信長の「支配の上でとかく障害になった」(176頁)との一面を否定するのは、事実評価の合理性を欠いていると言うべきだろう。法華宗徒は元々京都町衆に多く、歴史的にも“天文法華の乱”のような宗教戦争も経験するなど自立(排他)意識が強い。元亀4年の信長に依る“上京焼き討ち”もかかる京都町衆の自立意識(排他・敵対性)が影響している。「宗論」における信長の措置(条件提示)は、法華宗側の逃げ道を塞いだ上で、事後の始末(攻撃的な法華宗を抑圧する:177頁)を意図したものと素直に解すべきであろう。以上、全体的に豊富な史料参照と解釈に基づき実証的であり一部の考察には首肯できるものもあるが、巷間信長像の懐疑(否定)に拘泥するが故に、表層的ないし合理性を欠く解釈も散見される。
まず著者は信長の岐阜時代以降に使用された「天下布武」の印判の「天下」の意義について、当時の情況と史料解釈などから、信長の意図する「天下」とはもっぱら「五畿内における将軍秩序樹立のスローガン」(110頁)と観る。これは確かに上洛時期の信長の勢力等(尾張・美濃、近江半国程度)から観れば、合理的かつ説得力のある解釈であると思う。ただ信長の生涯全てに渡ってどこまでも著者の描く「将軍秩序」、即ち「五畿内」という「天下」に服従ないし留まっていたかは疑問の残るところで、義昭追放後の信長の版図拡大は、著者の右「天下」解釈では合理的な説明に無理があるように思う。そもそも著者は各有力大名への信長の書状を、額面(文言)通りにその真意を解釈する傾向が強いが、当時の大名間書状が言わば“外交文書”という一面を考慮しないのは妥当ではない(195〜201頁ほかの解釈)。例えば元亀年間の浅井・朝倉と信長の対立は、元々義昭名に依る上洛命令を無視した朝倉征伐が端緒であり、後に比叡山を含めた和睦は信長側の不利を示すものではあったが、むしろ信長の手の内にある義昭の「上意」を巧みに利用した戦術と観る通説が妥当である。上洛後の信長は往々にして自己の窮地に正親町天皇の勅命に依る講和や綸旨を巧みに利用している(元亀元年、天正元年、天正8年など)。つまり義昭自身の権威というよりも、「五畿内」の「天下」において信長の武力で再興した事実上の“幕府を支える朝廷権威”の結果と観るべきであって、信長が「将軍の権威に守られる立場」にあった(46頁)と言うのは、些か過大な評価と言わざるを得ない。それならば信長自ら再興した幕府の役職に(最後まで)就かなかったことと、論理的な整合性が取れないからである。
当時信長の戦術につき表層的に解釈することが妥当でないのは、対毛利との戦略にも現れている。本書では、信長側との和睦交渉にあたった安国寺恵瓊の書状(天正8年5月)について考察があるが(132〜137頁)、この中で信長は(宇喜多直家の件は格別)著者の解釈通り、毛利との和睦を志向していると観うる。ここで著者は「信長はまごうことなき天下人であり、天下人とは、諸国の大名との和睦により平和の実現をめざす存在と認識されていた」と評するが、これは一面的な理解であると言うべきだろう。なぜなら同じ天正8年8月、島津義久宛の書状(島津・大友の和睦勧告)では「来年(信長が)安芸の毛利氏の討伐に出陣しようとする」旨が記されており(200頁)、実際大友氏は北九州にあって、毛利の背後を突く重要な戦略的位置にあったことからすれば、右書状は毛利征伐の計画を裏付けると観るべきだからである。表面上は毛利との和睦を探りつつも、他方で背後の敵(大友氏)に接近すると言う(当然にあってしかるべき)戦略が窺われるのである。石山合戦で毛利の援軍に苦しめられてきた経緯・情況と山陽・山陰地方情勢の天正8年頃を考慮すれば、著者の描くほど単純な「天下」情勢(和睦一筋の平和志向)ではないと言うべきだろう。著者はかかる2件の書状を参照しながらその関係性について何も解説していないが、巷間信長像の懐疑に拘泥するあまり、安土城時代以降に変遷していく信長の戦略の多面性の評価、ひいては「天下布武」の内実の変遷を見誤っているように思える。
またいわゆる「安土宗論」について、著者は信長が法華宗側に示した条件、つまり「負けた場合には京都及び信長分国中の法華宗寺院を破却されても構わないと連判状を出して臨む」べきこと、そして「それは余りに酷い条件だと思うなら、宗論を止めてこのまま帰る」べきことをして、「浄土宗との和解を斡旋」したこと、及び「法華宗の弾圧を意図した」ものでないと解している(176頁)。しかし右「宗論」は元々法華宗側が仕掛けたものであり(175頁)、法華宗側が自ら「宗論」を仕掛けておいて素直に引き下がれる道理にないこと(既に京都等から僧衆が参集)、右のような一方的な信長の条件提示に対して今更「宗論」を止めることなどできるはずもないのは、火を見るより明らかであろう。また『信長公記』(巻十二)には、信長配下に法華宗徒が多いことなどから信長が調停に乗り出したことが記されており、「法華宗の弾圧を意図した」ものかは別論として、法華宗が信長の「支配の上でとかく障害になった」(176頁)との一面を否定するのは、事実評価の合理性を欠いていると言うべきだろう。法華宗徒は元々京都町衆に多く、歴史的にも“天文法華の乱”のような宗教戦争も経験するなど自立(排他)意識が強い。元亀4年の信長に依る“上京焼き討ち”もかかる京都町衆の自立意識(排他・敵対性)が影響している。「宗論」における信長の措置(条件提示)は、法華宗側の逃げ道を塞いだ上で、事後の始末(攻撃的な法華宗を抑圧する:177頁)を意図したものと素直に解すべきであろう。以上、全体的に豊富な史料参照と解釈に基づき実証的であり一部の考察には首肯できるものもあるが、巷間信長像の懐疑(否定)に拘泥するが故に、表層的ないし合理性を欠く解釈も散見される。
マイスタージャパン 戦国武将 ARMOR SERIES フィギュア 織田信長 Aタイプ
鎧は良く出来ていると思います。手に取るとプラスチック製で軽いのでちゃちく感じるかも知れませんが、飾って見る分には申し分ありません。家紋入りの専用ケースが付属なのでそのまま飾れるのが嬉しいです。全てあつめる予定でいますので、出来れば今後もたくさんの武将を発売して欲しいです。戦国武将好きなら買ってまず損はしないものだと思います。