現代思想 2014年4月号 特集=ブラック化する教育
教育論集ではあるものの、ここで読む場合、大衆化した大学における大学改革について改めて考えておきたい。
大学教育について考える場合、大学が1990年頃以来大学院大学化して以来、学部教育は存在しても学部での研究の重要性を主張する者は少なくなってしまった。
そうして学部で頑張っていても教育経営・大学評価の権限を有する教授・准教授(そもそもこの「助教授から准教授へと変化した」、また助手から「助教」、そして学部止まりで教育研究の権限を大幅に制限された新しい「助手」の新制度についての経緯自体を考慮すべきである)やそれらの代弁役である大学院生達が「あいつは気に入らない、使うだけ使って切り捨ててばよい(つまり学部での研究を妨害・放置・無視・ラベリングを行い大学院進学を妨害する)」と集団で決定することが偉いという誤った目標の下で結集して集団での協調性を主張する。学部教育と学部研究で無視されラベリングを貼られてハラスメントに遭った学部生の努力は報われない。そうしてどこにも所属先を失わせて「どこにも所属できないのだから研究などできない」と集団で嘲笑して「特権階級」は形成していく。「特権階級」とは対照的に下位の存在として大衆という概念や「だからどうしろというのか」のレビュアーが主張されたように、レビュアーの人がわざわざ括弧を付けた「市民」のせいに集約させて政治的に利用されて社会的経済的な弱者へ落としていく。そして、大勢の国民を社会的経済的弱者へ落としていった本当の張本人達である彼ら彼女たちはこの著書では顔を見せずに教育改革や大学での教育内容の充実を大学の教育経営・運営協議会、そして国の文部科学省や内閣府の高等教育を筆頭とする教育政策や規制緩和推進政策の審議会委員で謳っている現実の方がさらに怖いのである。「教育格差の社会学」「大学うんぬん」と宣っている者もそうした者達の中核の一人である。
本当の「知」はこうして著作を出すことが可能である彼ら彼女たちや教育・大学教育運営委員や国の審議委員だけのものではないことを再認識するための特集だと考える機会である。
著者達は教育学者だけではなく、教育社会学という社会学者や東京工業大学社会工学専門で教育社会学者である者も加わっている。その中には国の文部科学省や内閣府の規制緩和推進政策の委員とも同意見の者がいる。どちらも同じ種類の集まりである。
この種類の特集や本に対しては上述した文脈が根底にある前提で読むことを勧める。
大学教育について考える場合、大学が1990年頃以来大学院大学化して以来、学部教育は存在しても学部での研究の重要性を主張する者は少なくなってしまった。
そうして学部で頑張っていても教育経営・大学評価の権限を有する教授・准教授(そもそもこの「助教授から准教授へと変化した」、また助手から「助教」、そして学部止まりで教育研究の権限を大幅に制限された新しい「助手」の新制度についての経緯自体を考慮すべきである)やそれらの代弁役である大学院生達が「あいつは気に入らない、使うだけ使って切り捨ててばよい(つまり学部での研究を妨害・放置・無視・ラベリングを行い大学院進学を妨害する)」と集団で決定することが偉いという誤った目標の下で結集して集団での協調性を主張する。学部教育と学部研究で無視されラベリングを貼られてハラスメントに遭った学部生の努力は報われない。そうしてどこにも所属先を失わせて「どこにも所属できないのだから研究などできない」と集団で嘲笑して「特権階級」は形成していく。「特権階級」とは対照的に下位の存在として大衆という概念や「だからどうしろというのか」のレビュアーが主張されたように、レビュアーの人がわざわざ括弧を付けた「市民」のせいに集約させて政治的に利用されて社会的経済的な弱者へ落としていく。そして、大勢の国民を社会的経済的弱者へ落としていった本当の張本人達である彼ら彼女たちはこの著書では顔を見せずに教育改革や大学での教育内容の充実を大学の教育経営・運営協議会、そして国の文部科学省や内閣府の高等教育を筆頭とする教育政策や規制緩和推進政策の審議会委員で謳っている現実の方がさらに怖いのである。「教育格差の社会学」「大学うんぬん」と宣っている者もそうした者達の中核の一人である。
本当の「知」はこうして著作を出すことが可能である彼ら彼女たちや教育・大学教育運営委員や国の審議委員だけのものではないことを再認識するための特集だと考える機会である。
著者達は教育学者だけではなく、教育社会学という社会学者や東京工業大学社会工学専門で教育社会学者である者も加わっている。その中には国の文部科学省や内閣府の規制緩和推進政策の委員とも同意見の者がいる。どちらも同じ種類の集まりである。
この種類の特集や本に対しては上述した文脈が根底にある前提で読むことを勧める。