テレビコメンテーター - 「批判だけするエラい人」の正体 (中公新書ラクレ)
報道だろうがバラエティだろうがテレビ番組に必要な出演者は(誤解なきようドラマは除いておこう)
2種類しかいない。
1)仕切ることで価値のある人
2)存在することで価値のある人
あの人この人を思い浮かべるとどちらかに分類できるだろう。
どちらにも属さない人は間違えてテレビに出ているだけで早晩消える。
両方兼ね備えている人は大概大物だが、片方しか持っていない「大物」
と、呼ばれる人がいるのは不思議なことだ。
両方持っているのに手を抜いていて、番組ごとに片方しか出さない
手抜きもいる。
2)だけしか持たない人に1)を無理にやらせると悲惨なことになることも多いが、
時に大化けするのでわからない。
処で、本書の内容であるテレビコメンテーターで言うと。必要なのは2種類。
A)専門知識、情報を持っている人
B)印象だけで当意即妙な答えをする人
だが、私が思うに、もうA)しかいらない。B)は、もういなくてもいい。
というのが現在斜陽の日本のテレビの状況である。と私は思う。
では、本書の読み方。
上記の私の意見とコメンデーター当事者である筆者の意見がどれほど違うか
比較して読むのも一興だろう。
2種類しかいない。
1)仕切ることで価値のある人
2)存在することで価値のある人
あの人この人を思い浮かべるとどちらかに分類できるだろう。
どちらにも属さない人は間違えてテレビに出ているだけで早晩消える。
両方兼ね備えている人は大概大物だが、片方しか持っていない「大物」
と、呼ばれる人がいるのは不思議なことだ。
両方持っているのに手を抜いていて、番組ごとに片方しか出さない
手抜きもいる。
2)だけしか持たない人に1)を無理にやらせると悲惨なことになることも多いが、
時に大化けするのでわからない。
処で、本書の内容であるテレビコメンテーターで言うと。必要なのは2種類。
A)専門知識、情報を持っている人
B)印象だけで当意即妙な答えをする人
だが、私が思うに、もうA)しかいらない。B)は、もういなくてもいい。
というのが現在斜陽の日本のテレビの状況である。と私は思う。
では、本書の読み方。
上記の私の意見とコメンデーター当事者である筆者の意見がどれほど違うか
比較して読むのも一興だろう。
メディア批判 (シリーズ社会批判)
まず最初に言っておきたいのはメディアにおける現在のあり方に疑問を抱いているのであればぜひ一度は読んでみて欲しい。今、ピエール・ブルデューのこの「メディア批判」を読むことはそれなりに意義がある。これは言わばメディアにおけるメディア内への磁場を丹念に読み解いてゆく。本書の性格上、これと言って読みにくいということはない。フランスと日本という違いはあれ、メディアにおける磁場という面で見れば日本も変わりはない。それは最近の出版状況(ベストセラーなどについて、何でこれが?と思うものも多い。そう感じている人もまた決して少なくはないはずだ)、テレビのあり方(政治内容の乏しさ)だけを見てもわかるだろう。 ブルデューはそうしたものに対し、言わば強度をもって状況を普遍化し、対処するという気概を持っていた。彼のように信念を持つ者がどれだけいるか、意識的に、敢えて身振りを示すことにより彼は閉鎖状況になりつつあるメディア界を警告した。キャスターが学者風に「ソフィーの世界が80万部になっているのだから、今年の流行は哲学だ」こう断言するのは確かにマズイでしょう。数は世相を示すみたいな単純化思考は特に。もちろん、何かが失われた結果、マッチすることやニーズはありますが。こうした物事に抗する形で生まれてものが商業的なものを度外視した文化的生産物、数学、詩、文学、哲学などだという彼の主張は少し強いが、実りのあるものだ。「持ちつ持たれつ」の褒め合いごっこをやっていることを思えば。物事が横並びになった今では特に。妥協を知らない男だったが、その道の途中で死んでしまった。抗う途中で。今、読まれるべき本!この眼鏡、5つ星を献上。メディアに携わる人々が読む場合は自戒を込めて、批判的に意識を紡ぐ人には少しでもわかってもらえることを期待して、本書をおすすめします。