ATAK 020 THE END
「ボーカロイド『で』オペラ?」 「ボーカロイド『の』オペラ?」
YouTubeで公開されたトレイラーを見た時から気になってはいたものの、上演を見ることはできず、山口での初演から丸1年たっての今回のCD化で初めてこの作品に触れました。
ガラスのように研ぎ澄まされた幾重の電子音とデジタルノイズのレイヤーの上で、ふわふわと浮かび、揺れて、たゆたう、不安定な存在:初音ミクの歌声。 物語が盛り上がりへ向かううちにパーカッションや重低音も加わり、電子音の層も厚みを増していきます。
さらに歌詞の内容も少し難解で情報量の多い作品ですが、重ね方によっては不安定になりそうな音たちを破綻しないバランスで保っているのは渋谷さんのなせる業でしょう。
…さて。
この限定版に付属しているスクリプトを読みながら、私はこの作品を『【ミク】の「宿縁」と「終焉」の物語』として聴いて(見て)いました。
この物語で歌われるのは、彼女がボーカロイドという存在であるが故の「宿縁」(歌詞に直接『ボーカロイド』という単語は出てきませんが、『ボーカロイドとしてのミク』を歌っているということは予測できます)と、人々からミクへの『供給』が途絶えた後、彼女が辿るであろう「終焉」の可能性の一つです。
――誰かから与えられた言葉と旋律を歌うために生まれてきた。
少しぎこちない、でも限りなく人間に近い、電子の声を持つ少女。
彼女の声は生。 生は声。
でも、それがいつかそう遠くないうちに失われるものだとしたら――?
ミク以外の登場人物(ネズミのような姿をした『生物』、ミクに死の概念を伝える『訪問者』、ミクと電話越しで話している『誰か』など)や、ミクの部屋の外で起こっていた出来事は何を表しているのか。
『人間ならざる者』である「不完全」なミクは、「完全」な存在である『人間』との境界線を越えてしまうのか、越えるというならどのようになのか。
ミクにとっての「終わり」とは、「死」とは何か…
「もしかしたらこうなんじゃないかな」と思わせる要素は用意されているものの、これらの問いに作中で明確な答えが提示されることはありません。
さらには、この作品を【初音ミク】の物語として見た場合、
『この作品に登場する【ミク】はみんなのイメージにある【初音ミク】と同じ存在なのか』
という疑問が浮かんでくると思います。
笑顔を見せない、どこかひねくれていてつかみどころがない、そして「死」への不安にとらわれている、この物語の【ミク】。
上演を見た人の中には「こんなの自分の思っている【初音ミク】じゃない」「この【ミク】は自分には受け入れられない」という声も出ていたようです。
でも、『わたしには関係ない』『わたしの言うことについていけないというなら、ついてくる必要ない』とミクが作中で歌っているように、人によって感じ取るものや考え方が変わってくるだろうことは、この作品に込められた意図の一つなのかもしれません。
これは私の勝手な解釈なのですが…
終盤に歌われる「声と言葉のアリア」と「終わりのアリア」は、歌詞にある『きみ』や『あなた』――つまり、作品を見ている『私たち』へ向けられた歌ではないかと思っています。
歌の終わりに挿入される、すべての境界線を融かすような強い音圧のデジタルノイズの後に、すっと訪れる静寂……
この音を聴いたとき、私の中にいた【初音ミク】のイメージがこの物語の【ミク】を受け入れ、混ざり合い、壊れ、一度死んで、ふたたび生まれ変わったように感じました。
まさしく、『THE END』という『イニシエーション(通過儀礼)』を越えて。
最後に。
初音ミクは死ぬのか、という問いかけに、私は「『今は』わからない」と答えます。
いつか彼女に生(はじまり)を与えたのが、私たちであるように。
彼女に死(おわり)を与えるのも、私たちなのだから――。
(※2013.12.18 加筆修正しました)
YouTubeで公開されたトレイラーを見た時から気になってはいたものの、上演を見ることはできず、山口での初演から丸1年たっての今回のCD化で初めてこの作品に触れました。
ガラスのように研ぎ澄まされた幾重の電子音とデジタルノイズのレイヤーの上で、ふわふわと浮かび、揺れて、たゆたう、不安定な存在:初音ミクの歌声。 物語が盛り上がりへ向かううちにパーカッションや重低音も加わり、電子音の層も厚みを増していきます。
さらに歌詞の内容も少し難解で情報量の多い作品ですが、重ね方によっては不安定になりそうな音たちを破綻しないバランスで保っているのは渋谷さんのなせる業でしょう。
…さて。
この限定版に付属しているスクリプトを読みながら、私はこの作品を『【ミク】の「宿縁」と「終焉」の物語』として聴いて(見て)いました。
この物語で歌われるのは、彼女がボーカロイドという存在であるが故の「宿縁」(歌詞に直接『ボーカロイド』という単語は出てきませんが、『ボーカロイドとしてのミク』を歌っているということは予測できます)と、人々からミクへの『供給』が途絶えた後、彼女が辿るであろう「終焉」の可能性の一つです。
――誰かから与えられた言葉と旋律を歌うために生まれてきた。
少しぎこちない、でも限りなく人間に近い、電子の声を持つ少女。
彼女の声は生。 生は声。
でも、それがいつかそう遠くないうちに失われるものだとしたら――?
ミク以外の登場人物(ネズミのような姿をした『生物』、ミクに死の概念を伝える『訪問者』、ミクと電話越しで話している『誰か』など)や、ミクの部屋の外で起こっていた出来事は何を表しているのか。
『人間ならざる者』である「不完全」なミクは、「完全」な存在である『人間』との境界線を越えてしまうのか、越えるというならどのようになのか。
ミクにとっての「終わり」とは、「死」とは何か…
「もしかしたらこうなんじゃないかな」と思わせる要素は用意されているものの、これらの問いに作中で明確な答えが提示されることはありません。
さらには、この作品を【初音ミク】の物語として見た場合、
『この作品に登場する【ミク】はみんなのイメージにある【初音ミク】と同じ存在なのか』
という疑問が浮かんでくると思います。
笑顔を見せない、どこかひねくれていてつかみどころがない、そして「死」への不安にとらわれている、この物語の【ミク】。
上演を見た人の中には「こんなの自分の思っている【初音ミク】じゃない」「この【ミク】は自分には受け入れられない」という声も出ていたようです。
でも、『わたしには関係ない』『わたしの言うことについていけないというなら、ついてくる必要ない』とミクが作中で歌っているように、人によって感じ取るものや考え方が変わってくるだろうことは、この作品に込められた意図の一つなのかもしれません。
これは私の勝手な解釈なのですが…
終盤に歌われる「声と言葉のアリア」と「終わりのアリア」は、歌詞にある『きみ』や『あなた』――つまり、作品を見ている『私たち』へ向けられた歌ではないかと思っています。
歌の終わりに挿入される、すべての境界線を融かすような強い音圧のデジタルノイズの後に、すっと訪れる静寂……
この音を聴いたとき、私の中にいた【初音ミク】のイメージがこの物語の【ミク】を受け入れ、混ざり合い、壊れ、一度死んで、ふたたび生まれ変わったように感じました。
まさしく、『THE END』という『イニシエーション(通過儀礼)』を越えて。
最後に。
初音ミクは死ぬのか、という問いかけに、私は「『今は』わからない」と答えます。
いつか彼女に生(はじまり)を与えたのが、私たちであるように。
彼女に死(おわり)を与えるのも、私たちなのだから――。
(※2013.12.18 加筆修正しました)
ATAK015 for maria
かなり批判的なレビューが目立ちますが、まあ納得っちゃ納得です。
別に演奏がうまいわけでもないですし、そこまで耳に残るメロディーが収録されているわけではないですからね。
まあ松本人志のコントみたいなもんですね。
聴く側の想像力が乏しかったり前提知識なしでは全くつまらない作品になるでしょう。
この作品は恐らくあえて、さも編集をしていないような、一発どりのような、聴かせ方をしてるわけです。
誤解を恐れず言えば"雑"な演奏。
なぜか?この作品はホールで聴くような完璧な音楽作品にしたかったわけではなく、あくまでも自分の近しい人がプライベートな空間でピアノを弾いているのを、感じるという「音響体験」に重きを置いています。
ここ重要ね。結局渋谷さんのすごいところって音響体験に対する絶対的な説得力なわけです。
だから演奏が雑だろうと「その場にいるような」ってのが感じれたらその時点で完結できちゃう作品なんですね。
そんで、これをこのレベルでやろうとする音楽家は恐らく渋谷慶一郎この人だけですね。
なので坂本龍一と比較している人は、坂本龍一のピアノソロ作品と向いているベクトルが全く違うということをまず認識しなければいけません。
坂本龍一は僕も大好きですが、あの人はかなり音楽的な音楽家です。
世の多くの一般的な音楽家と、世界的なサウンド・アーティストでもある渋谷慶一郎を同じ土俵で考えると、恥をかくので雰囲気だけで比較するのはやめましょう。
とは言え、このアルバムは渋谷慶一郎の作品の中でも特に「音楽的」な作品と言えるでしょう。
これまで一切の音楽家としてのパーソナルな感情を作品に映し出す事を否定していた渋谷慶一郎にとってかなり変化の見られる作品だと思います。
この作品で渋谷慶一郎が目指した音響体験は、自然に次の鍵盤を求めて指が動き、ペダルを踏んで、呼吸をして譜面をめくる様がまざまざと収められています。
そこには無機質なノイズを鳴らす渋谷慶一郎の姿はなく、亡くなった奥さんに向けた叙情的で人間的な部分が見え隠れします。
音響作品=ノイズという概念をぶち壊し、優しく穏やかなサウンドで、しかもピアノというめちゃくちゃ馴染みにある楽器で先鋭的なサウンドを聴かせるこれまでにない音響作品です。
こんだけベタ褒めですが決して頻繁に聴くアルバムには絶対ならないと思います。
なかなか生活の中で聞く音楽としてはあまりにリアルで重すぎます。
こういう作品の評価はもう価値観の問題でしょう。
わかる人にはわかる。わからない人にはわからないって感じでいいんじゃないですかね?
別に演奏がうまいわけでもないですし、そこまで耳に残るメロディーが収録されているわけではないですからね。
まあ松本人志のコントみたいなもんですね。
聴く側の想像力が乏しかったり前提知識なしでは全くつまらない作品になるでしょう。
この作品は恐らくあえて、さも編集をしていないような、一発どりのような、聴かせ方をしてるわけです。
誤解を恐れず言えば"雑"な演奏。
なぜか?この作品はホールで聴くような完璧な音楽作品にしたかったわけではなく、あくまでも自分の近しい人がプライベートな空間でピアノを弾いているのを、感じるという「音響体験」に重きを置いています。
ここ重要ね。結局渋谷さんのすごいところって音響体験に対する絶対的な説得力なわけです。
だから演奏が雑だろうと「その場にいるような」ってのが感じれたらその時点で完結できちゃう作品なんですね。
そんで、これをこのレベルでやろうとする音楽家は恐らく渋谷慶一郎この人だけですね。
なので坂本龍一と比較している人は、坂本龍一のピアノソロ作品と向いているベクトルが全く違うということをまず認識しなければいけません。
坂本龍一は僕も大好きですが、あの人はかなり音楽的な音楽家です。
世の多くの一般的な音楽家と、世界的なサウンド・アーティストでもある渋谷慶一郎を同じ土俵で考えると、恥をかくので雰囲気だけで比較するのはやめましょう。
とは言え、このアルバムは渋谷慶一郎の作品の中でも特に「音楽的」な作品と言えるでしょう。
これまで一切の音楽家としてのパーソナルな感情を作品に映し出す事を否定していた渋谷慶一郎にとってかなり変化の見られる作品だと思います。
この作品で渋谷慶一郎が目指した音響体験は、自然に次の鍵盤を求めて指が動き、ペダルを踏んで、呼吸をして譜面をめくる様がまざまざと収められています。
そこには無機質なノイズを鳴らす渋谷慶一郎の姿はなく、亡くなった奥さんに向けた叙情的で人間的な部分が見え隠れします。
音響作品=ノイズという概念をぶち壊し、優しく穏やかなサウンドで、しかもピアノというめちゃくちゃ馴染みにある楽器で先鋭的なサウンドを聴かせるこれまでにない音響作品です。
こんだけベタ褒めですが決して頻繁に聴くアルバムには絶対ならないと思います。
なかなか生活の中で聞く音楽としてはあまりにリアルで重すぎます。
こういう作品の評価はもう価値観の問題でしょう。
わかる人にはわかる。わからない人にはわからないって感じでいいんじゃないですかね?
ATAK011 LIVE DVD ATAK NIGHT3
視覚と聴覚の境ってどこだっけ?ってなぐらい刺激的な映像と
ハイクオリティなサウンドは一体化
生ける伝説灰野敬二や大御所PANSONICももちろんいいが
渋谷慶一郎のパフォーマンスに受ける衝撃は未来永劫消えることはないだろう
何度観ても高まる鼓動
圧倒的な音空間はあらゆる言語を駆使しても伝えきれない
ハイクオリティなサウンドは一体化
生ける伝説灰野敬二や大御所PANSONICももちろんいいが
渋谷慶一郎のパフォーマンスに受ける衝撃は未来永劫消えることはないだろう
何度観ても高まる鼓動
圧倒的な音空間はあらゆる言語を駆使しても伝えきれない