母の遺産―新聞小説
50代の女性を主人公にした小説はそう多くはない。しかも50代の女性を主人公にしたこれほど骨太の小説には、滅多にお目にかかれない。主人公美津紀は要介護の母を抱え、容色も体調も下り坂で、おまけに単身赴任中の夫の浮気が発覚。三方塞がりの中年女性だ。その彼女が絶望を心に抱えながら「今日、母が死んだ」という言葉を口にすることができる日を待つ日々。そしてついにその日が来ることで、落ちるにまかせるしかなかった人生に転機が訪れる。思った以上の遺産がころがりこんだのだ。娘はそれを元手に、50代にして崩れかかっていた自身の人生の建て直しをはじめる。500ページ以上の長編である。前半は、母の死、後半は母の死後、主人公が長逗留する箱根のホテルでの話が中心となる。母の死に至るまでの前半は、主人公が痛々しいまでに自分と向き合う過程であり、後半は、母の死によって頭上の重しが外れ、また外の光を見た主人公の心境の変化が描かれている。考えてみれば、親の死と配偶者との別離が若くもない人間の身にふりかかるのは一大事である。自らに生を与えた者の死と、自らが人生を共にすると誓った者の裏切りに直面したときの苦悩と矛盾に満ちた感情を、客観的に記録する余裕のある人間などいない。そこを引き受けていくのは文学しかないのかもしれない。
著者は、主人公とその母を描くために、曾祖母の代までさかのぼっている。深みのある小説にはこうしたSagaの要素は欠かせない。昨今の小説には祖父母はおろか、親さえろくに出てこぬまま、本人と周辺数名で成り立っている世界観の小説が多い気がする。そういうものは主人公の運や意思に頼りすぎる展開で、たいがいおもしろくない。本人にはいかんともしがたい運命をきちん描くことが小説の役割である。
核家族どころか、単身世帯が三割を超えると言うこの時代においても、人間の人生の大枠は、相当程度において二代前の祖父母の時代に決定されている部分が少なくない。一代前の親の因果はもっと直接的に子に報いる。家族によって、本書の主人公の実家、「桂家」は、こうした因果関係がことさらに濃い家だった。祖母は芸者の娘で、置屋に幼女にやられ、金持ちの妾になった。紆余曲折あって、息子の家庭教師とのあいだにできたのが「母」である。母は庶子だった。その家庭教師の父の姉、つまり「母の伯母」が嫁いだ先が商船会社で成功した実業家で、横浜に邸宅を構えていた。母は女学校卒業後にその家に乗り込み、そこから嫁にも出してもらったが、子供を置いて婚家から飛び出し、主人公の「父」といっしょになる。若いころから上昇志向と行動力のかたまりのような母であったが、家では独裁者のごとくふるった。齢70をこえて愛人をつくり、夫を捨て、あげくのはてに娘に「お父さんの生命保険がおりたら欧州旅行に行こう」などといそいそと電話してくるような母に主人公もその姉も愛想をつかしていた。というよりも、積極的に憎んだ。
この「母」のことを、あまりにあしざまに書いてあるので、ものすごく酷い母親という気がしてくるが、1度目の結婚は失敗したにせよ、2度目の結婚生活は少なくとも子供が成人するまでは続いたわけで、教育にも熱心で、しかるべき家に嫁がせ、老いては自らホームにはいるなど、経済的に子供に頼らぬばかりか、たいそうな遺産までのこした人である。多少のわがままや奇行は大目に見てもいいのではないか。「母」の言うことはたしかに気まぐれで、高圧的かと思えば、媚をうってくるようないやらしさもあるのだが、「死んでほしい」ほどの憎しみをわかせるものではないように感じる。ただ、この姉妹にとって母が父を捨てたことは、どうしても許しがたい事件だったのであろう。そのことを悔いもせず、満足に歩けなくなっても「女であること」も「贅沢」もあきらめずに娘たちに指図する「死ぬまで変わらない性分」が「死んでほしい」くらいの憎しみの対象につながっていった。骨肉の憎悪は、他人には理解しがたいほどに歪んで増幅されるから性質が悪い。美津紀の母に対する思いがどれだけ複雑なものであったか。
「母の最後は贅沢なものであってほしかった。父をあんなところにつっこんで平気だった母の最後が贅沢なものであって欲しいという気持ちは、自分でも説明がつかなかったが、父の最後が自分の椅子一つないものであったからこそ、母のホームでの生活はあの母らしいものであって欲しかった」
父と母への愛憎がぐちゃぐちゃにいりまじった倒錯した感情がこの数行に凝縮されている。血のつながった母親に対する複雑な思いに比べれば、自分を裏切った夫に対する気持ちの整理はおどろくほど早い。結婚何十年もたてば、恋しいゆえの嫉妬の感情などもうわかない。かわりに、そもそも相手は自分のことを愛していなかったのではという猜疑心が頭をもたげ、どうにも始末がつかなくなる。日常の些事に追われて振り返ることもしなかった、あえて口にするほどでもなく、掘り下げるほどでもないかすかな失望や疑いが後ろからひたひたと追いかけてきて、人生も下り坂に差し掛かった女を捉え、苛む。新婚旅行のとき、感極まって思わず歌を口ずさんだ美津紀から、夫はすっと遠ざかった。そのときの「どうして?」という気持ちが、自分は「愛されなかった」という気づきにつながり、そうなると、自分にプロポーズした夫の一途な思いまでも完全に否定する。「人間は自分の本性を裏切る時がある」と。美津紀は、夫は「自分を裏切って私と結婚した」という結論にたどり着くまでの過程には、苦しみはあっても、迷いはさほど感じられない。「やっぱり」が「でも」に圧倒的に勝っている。
妻を病気で失った松原氏との出会いや、湖のホテルでの気晴らし的な人付き合いによって、徐々に美津紀の気持ちがほぐれていくが、現状打開の鍵となるのは「お金」である。母との確執も遺産で緩和され、夫からの独立もその遺産あってこそ。これをするためにはこれだけのお金がいる、このお金があればこれだけのことができる、と女は疲れた頭であれこれと考える。お金のことを考えることにより、過去を清算し、未来を計算できる。日常的に使うお金以外は、クリックひとつで銀行に振り込まれ、ボタンひとつで通帳に記録される目に見えない存在であるが、お金には宗教のような強い力がある。お金で買えないとされている未来、希望も、自尊心、といった目に見えないものも、じつはお金である程度、いや相当程度手に入る。逆に、お金の扱い方を間違えばその目に見えないものが深く傷つく。
「この年になると、いくら新たな出発点に立たされようと、真に新たな出発点などはない」「自分の人生はこのままひたすら何もないままに下降線を辿るしかないのだろうか」と思うほどに落ち込んだ中年女が、お金の不思議な力によって浮上してくるのである。「五十代で、母親だけじゃなくって、夫までいなくなって、金貨ザクザク大金」という「シンデレラストーリー」を手に入れた主人公は、「私は幸せだ」と思わず口にするまでに残りの人生に前向きになる。その「幸せ」は決してフワフワしたおとぎ話のような甘いものではなく、「母が二度とみることはない桜の花」を、いずれ自身も「二度と見ることがなくなる」その日まで、しっかりと生ききろう決意した人間だけが味わえる乾いた諦めにも似た、幸せの境地である。
著者は、主人公とその母を描くために、曾祖母の代までさかのぼっている。深みのある小説にはこうしたSagaの要素は欠かせない。昨今の小説には祖父母はおろか、親さえろくに出てこぬまま、本人と周辺数名で成り立っている世界観の小説が多い気がする。そういうものは主人公の運や意思に頼りすぎる展開で、たいがいおもしろくない。本人にはいかんともしがたい運命をきちん描くことが小説の役割である。
核家族どころか、単身世帯が三割を超えると言うこの時代においても、人間の人生の大枠は、相当程度において二代前の祖父母の時代に決定されている部分が少なくない。一代前の親の因果はもっと直接的に子に報いる。家族によって、本書の主人公の実家、「桂家」は、こうした因果関係がことさらに濃い家だった。祖母は芸者の娘で、置屋に幼女にやられ、金持ちの妾になった。紆余曲折あって、息子の家庭教師とのあいだにできたのが「母」である。母は庶子だった。その家庭教師の父の姉、つまり「母の伯母」が嫁いだ先が商船会社で成功した実業家で、横浜に邸宅を構えていた。母は女学校卒業後にその家に乗り込み、そこから嫁にも出してもらったが、子供を置いて婚家から飛び出し、主人公の「父」といっしょになる。若いころから上昇志向と行動力のかたまりのような母であったが、家では独裁者のごとくふるった。齢70をこえて愛人をつくり、夫を捨て、あげくのはてに娘に「お父さんの生命保険がおりたら欧州旅行に行こう」などといそいそと電話してくるような母に主人公もその姉も愛想をつかしていた。というよりも、積極的に憎んだ。
この「母」のことを、あまりにあしざまに書いてあるので、ものすごく酷い母親という気がしてくるが、1度目の結婚は失敗したにせよ、2度目の結婚生活は少なくとも子供が成人するまでは続いたわけで、教育にも熱心で、しかるべき家に嫁がせ、老いては自らホームにはいるなど、経済的に子供に頼らぬばかりか、たいそうな遺産までのこした人である。多少のわがままや奇行は大目に見てもいいのではないか。「母」の言うことはたしかに気まぐれで、高圧的かと思えば、媚をうってくるようないやらしさもあるのだが、「死んでほしい」ほどの憎しみをわかせるものではないように感じる。ただ、この姉妹にとって母が父を捨てたことは、どうしても許しがたい事件だったのであろう。そのことを悔いもせず、満足に歩けなくなっても「女であること」も「贅沢」もあきらめずに娘たちに指図する「死ぬまで変わらない性分」が「死んでほしい」くらいの憎しみの対象につながっていった。骨肉の憎悪は、他人には理解しがたいほどに歪んで増幅されるから性質が悪い。美津紀の母に対する思いがどれだけ複雑なものであったか。
「母の最後は贅沢なものであってほしかった。父をあんなところにつっこんで平気だった母の最後が贅沢なものであって欲しいという気持ちは、自分でも説明がつかなかったが、父の最後が自分の椅子一つないものであったからこそ、母のホームでの生活はあの母らしいものであって欲しかった」
父と母への愛憎がぐちゃぐちゃにいりまじった倒錯した感情がこの数行に凝縮されている。血のつながった母親に対する複雑な思いに比べれば、自分を裏切った夫に対する気持ちの整理はおどろくほど早い。結婚何十年もたてば、恋しいゆえの嫉妬の感情などもうわかない。かわりに、そもそも相手は自分のことを愛していなかったのではという猜疑心が頭をもたげ、どうにも始末がつかなくなる。日常の些事に追われて振り返ることもしなかった、あえて口にするほどでもなく、掘り下げるほどでもないかすかな失望や疑いが後ろからひたひたと追いかけてきて、人生も下り坂に差し掛かった女を捉え、苛む。新婚旅行のとき、感極まって思わず歌を口ずさんだ美津紀から、夫はすっと遠ざかった。そのときの「どうして?」という気持ちが、自分は「愛されなかった」という気づきにつながり、そうなると、自分にプロポーズした夫の一途な思いまでも完全に否定する。「人間は自分の本性を裏切る時がある」と。美津紀は、夫は「自分を裏切って私と結婚した」という結論にたどり着くまでの過程には、苦しみはあっても、迷いはさほど感じられない。「やっぱり」が「でも」に圧倒的に勝っている。
妻を病気で失った松原氏との出会いや、湖のホテルでの気晴らし的な人付き合いによって、徐々に美津紀の気持ちがほぐれていくが、現状打開の鍵となるのは「お金」である。母との確執も遺産で緩和され、夫からの独立もその遺産あってこそ。これをするためにはこれだけのお金がいる、このお金があればこれだけのことができる、と女は疲れた頭であれこれと考える。お金のことを考えることにより、過去を清算し、未来を計算できる。日常的に使うお金以外は、クリックひとつで銀行に振り込まれ、ボタンひとつで通帳に記録される目に見えない存在であるが、お金には宗教のような強い力がある。お金で買えないとされている未来、希望も、自尊心、といった目に見えないものも、じつはお金である程度、いや相当程度手に入る。逆に、お金の扱い方を間違えばその目に見えないものが深く傷つく。
「この年になると、いくら新たな出発点に立たされようと、真に新たな出発点などはない」「自分の人生はこのままひたすら何もないままに下降線を辿るしかないのだろうか」と思うほどに落ち込んだ中年女が、お金の不思議な力によって浮上してくるのである。「五十代で、母親だけじゃなくって、夫までいなくなって、金貨ザクザク大金」という「シンデレラストーリー」を手に入れた主人公は、「私は幸せだ」と思わず口にするまでに残りの人生に前向きになる。その「幸せ」は決してフワフワしたおとぎ話のような甘いものではなく、「母が二度とみることはない桜の花」を、いずれ自身も「二度と見ることがなくなる」その日まで、しっかりと生ききろう決意した人間だけが味わえる乾いた諦めにも似た、幸せの境地である。
日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で
自分は文学という学問には門外漢なので、日本語が国語となった経緯の説明で使われている本書の議論が一般性を持つものなのか分からない。しかし、本書で触れられている、普遍語の存在下で現地語である日本語が国語に至る経緯を、欧米の言語と比較しながら説明するくだりは非常に納得がいくものだった。また、国語形成において明治の先人たちが翻訳活動を通じて日本語で考えることができるまでに言語の完成度を高め、そうした知的活動が現在の日本の大学を形成する土台にもなっている事もよく分かった。また、言語が亡びる第一段階としてその言語で「読まなくなること」があげられているが、英語がインターネット時代の普遍語となったときに英語で情報収集することが多くなる事は必然と感じられた。
それ以降の筆者の展開で考えさせられた点が2つ。まず、母語が日本語である場合、英語が普遍語になったとしても叡智のある(文学)人が必ずしも英語で表現するのだろうか。確かに明治には西洋の新しい知見を日本語に取り込んで近代文学が生まれたが、新たな知見の日本語への取り込みがなくなり英語だけで簡潔している場合は表現可能な文学に制約は発生しそうである。また、日本の国語教育として近代文学を読むことを訴えているが、これには賛成したい。日本に平安時代から残されている文学・聖典の解釈等は日本人の財産であり、受験を抜きにしてそれらを楽しめるようになることが、義務教育の国語における到達地点であってもよいと思う。
それ以降の筆者の展開で考えさせられた点が2つ。まず、母語が日本語である場合、英語が普遍語になったとしても叡智のある(文学)人が必ずしも英語で表現するのだろうか。確かに明治には西洋の新しい知見を日本語に取り込んで近代文学が生まれたが、新たな知見の日本語への取り込みがなくなり英語だけで簡潔している場合は表現可能な文学に制約は発生しそうである。また、日本の国語教育として近代文学を読むことを訴えているが、これには賛成したい。日本に平安時代から残されている文学・聖典の解釈等は日本人の財産であり、受験を抜きにしてそれらを楽しめるようになることが、義務教育の国語における到達地点であってもよいと思う。
本格小説〈上〉 (新潮文庫)
本当に面白く、そして感動的な小説である。「本格小説」という難しそうな題名だが、読み始めると、やめられなくなる。上巻で仕掛けられた伏線が次から次へとつながってくる下巻に入ると、徹夜になる。著者自身が朝日新聞のインタビューで述べていたように、純文学こそ最高のエンターテイメントでありうることを、まさにこの小説が立証している。この作家が現代日本の最高峰に位置していることを言い切るだけの批評力を持つ批評家があらわれることを願う。
私はすでに3回読んだ。これから長く読み継がれていくべき大傑作である。
私はすでに3回読んだ。これから長く読み継がれていくべき大傑作である。