安徳天皇漂海記 (中公文庫)
本書は、澁澤龍彦の『高丘親王航海記』に対する盛大なオマージュなのですが、『高丘親王〜』をころりと乾いた真白い真珠とすると、本書はさながらとろりと蕩けるの蜜の如し。
前半では、鎌倉最後の将軍、源実朝に近衛として仕えていた語り手が、主である実朝とそれを透かして見た安徳天皇について、和歌を交えてやわらかく語っています。
全体的にほの暗く、しっとりとした語り口から見える実朝の生涯は、壮絶にして静謐。
要所要所に挟まれる実朝の詠歌が、物語と絡み合ってなんともいえぬ美しさをかもし出しています。
後半は、大元帝国の巡遣使であるマルコ・ポーロが見た、南宋最後の幼帝、趙'(ちょうへい)と、はるかな海へと流れついた安徳天皇の鎮魂にいたるまでが、絢爛たる文章で綴られています。
夢の中で睦まじく戯れる二人の幼帝や、偉大なる帝国の覇者クビライ・カーン、そして見聞役のマルコ・ポーロと、随行する鄭文海。
様々な人物が色鮮やかに、生き生きと描き出されています。
そしてなにより、最後に出てくるジパングの描写は圧巻。
歴史の中に、途方もない幻想を描いた著者の想像力もさることながら、随所にちりばめられた玉石、赤い水晶、少年、水の国、うつろ舟、鳥、そして蜜といったイメージが『高丘親王〜』をはじめとする澁澤の世界を髣髴とさせ、最後まで引き込まれるように読めました。
とてもとても面白かった。
ぜひとも、蜜を舌に含むが如く、ゆっくりと味わうべし。
前半では、鎌倉最後の将軍、源実朝に近衛として仕えていた語り手が、主である実朝とそれを透かして見た安徳天皇について、和歌を交えてやわらかく語っています。
全体的にほの暗く、しっとりとした語り口から見える実朝の生涯は、壮絶にして静謐。
要所要所に挟まれる実朝の詠歌が、物語と絡み合ってなんともいえぬ美しさをかもし出しています。
後半は、大元帝国の巡遣使であるマルコ・ポーロが見た、南宋最後の幼帝、趙'(ちょうへい)と、はるかな海へと流れついた安徳天皇の鎮魂にいたるまでが、絢爛たる文章で綴られています。
夢の中で睦まじく戯れる二人の幼帝や、偉大なる帝国の覇者クビライ・カーン、そして見聞役のマルコ・ポーロと、随行する鄭文海。
様々な人物が色鮮やかに、生き生きと描き出されています。
そしてなにより、最後に出てくるジパングの描写は圧巻。
歴史の中に、途方もない幻想を描いた著者の想像力もさることながら、随所にちりばめられた玉石、赤い水晶、少年、水の国、うつろ舟、鳥、そして蜜といったイメージが『高丘親王〜』をはじめとする澁澤の世界を髣髴とさせ、最後まで引き込まれるように読めました。
とてもとても面白かった。
ぜひとも、蜜を舌に含むが如く、ゆっくりと味わうべし。
かがやく月の宮
何故に石作皇子萌え、だとか。天帝の座す道教系の天人達であるはずが、何故に菩薩来迎図なのか、とか単純比較しただけでも作り手達の意図の違いが見えて面白いという点もございますが、何よりも本作、映画と同じく、話したこともなければ、そもそも互いの顔も知らずに惚れた、腫れたを繰り広げる上古の習慣を最大限に生かして、かぐや姫サイドのお話をバッサリ省略。その空ろな中心を取り巻く、五人の求婚者と帝の物語になっているからなのでございます(だから丁度、映画と対になってるわけで)
白村江以降の飛鳥・白凰時代を五年ぐらいに圧縮した結果、巨大イベント目白押しの極彩色の大決戦と化した乱世にありながらも、なすべきことはすでになく、何故か不比等の兄貴(ゆえに、車持皇子=不比等説はスルー)がでかい面で采配する宮中に置物の狸のように座しながら、激変する事態を静観せざるえない彼らの鬱屈と焦燥。
あとはふざけ散らして、それでも誤魔化しが効かなくなった時点で死ぬしかない、
永遠の笑いの刑を受けながら、/微笑むことは許されぬ/
絶望的な物狂い。よもやあの間抜けな婚約者達にこうも深く寄り添う物語があろうとは、誰だか知らない原作者だってびっくりでしょう。
モデルと目される源融や作者に擬せられる紀貫之(ちゃんと女になってる)がちゃっかり顔を出していたり、わざわざ宇治拾遺からデブの痩せないダイエットを引っ張って来たりして作者が楽しんで書いているのがよくわかります。が、楽しみすぎて草壁皇子と文武天皇(軽皇子)がイイ感じに混ざった帝が高丘親王そのまんまになってしまったのはご愛嬌。
またか、どんだけ高丘親王好きやねん。と突っ込むのも野暮というもので、ここはそのさらなるネタ元、「右大臣実朝」に
「自分は夢の中に遊んでいるのだろうか」
と、コクトーから引用した故実相寺昭雄の言葉がこのお話を彩るに相応しい気がします。
ありもしない「かがやく月の宮」から、あるかなしかもわからぬ「かがやく日の宮」へ
合わせ鏡の織り成す空ろな迷宮の如き、うつろでうつろでうつろでうつろな空言でおじゃります
次は死者の書ですかね。
白村江以降の飛鳥・白凰時代を五年ぐらいに圧縮した結果、巨大イベント目白押しの極彩色の大決戦と化した乱世にありながらも、なすべきことはすでになく、何故か不比等の兄貴(ゆえに、車持皇子=不比等説はスルー)がでかい面で采配する宮中に置物の狸のように座しながら、激変する事態を静観せざるえない彼らの鬱屈と焦燥。
あとはふざけ散らして、それでも誤魔化しが効かなくなった時点で死ぬしかない、
永遠の笑いの刑を受けながら、/微笑むことは許されぬ/
絶望的な物狂い。よもやあの間抜けな婚約者達にこうも深く寄り添う物語があろうとは、誰だか知らない原作者だってびっくりでしょう。
モデルと目される源融や作者に擬せられる紀貫之(ちゃんと女になってる)がちゃっかり顔を出していたり、わざわざ宇治拾遺からデブの痩せないダイエットを引っ張って来たりして作者が楽しんで書いているのがよくわかります。が、楽しみすぎて草壁皇子と文武天皇(軽皇子)がイイ感じに混ざった帝が高丘親王そのまんまになってしまったのはご愛嬌。
またか、どんだけ高丘親王好きやねん。と突っ込むのも野暮というもので、ここはそのさらなるネタ元、「右大臣実朝」に
「自分は夢の中に遊んでいるのだろうか」
と、コクトーから引用した故実相寺昭雄の言葉がこのお話を彩るに相応しい気がします。
ありもしない「かがやく月の宮」から、あるかなしかもわからぬ「かがやく日の宮」へ
合わせ鏡の織り成す空ろな迷宮の如き、うつろでうつろでうつろでうつろな空言でおじゃります
次は死者の書ですかね。
黎明に叛くもの (中公文庫)
歴史愛好家は過去の記述に触れるとき、己の脳裏に鮮烈な絵を描くと思う。
人が歴史を知った時にまず一枚の強烈なイメージを抱く、そして「この人物事件を裏面から見た記述」「意外史」「経済学的見地からの評価」等々学ぶにつれ、いつしかその「絵」は色褪せたものとなっていく。
しかしこの作者はその「強烈なイメージ」を追及していると思う。
この作者の作品を愛するものはその絵を味わう為、何度も頁を反芻する事になると思う。絵画の鑑賞にリアリティやモチーフの脈絡やら理屈は要らない。唯惑溺できればいいのだ。
史実との整合?そんなものは現在を生きるものには誰にも分からない、関係ない、だから宇月原作品が好きなのだ。(引用は豊富、念の為)
今回も魅せてくれました、読後には、全山紅葉に燃える大和信貴山城の頂上に聳える天守の最上階の茶室で、松永久秀と向かい合う明智光秀、その望楼を跳ね回る金髪碧眼の果心居士が、鮮やかに蘇える。また読んじゃおう。
人が歴史を知った時にまず一枚の強烈なイメージを抱く、そして「この人物事件を裏面から見た記述」「意外史」「経済学的見地からの評価」等々学ぶにつれ、いつしかその「絵」は色褪せたものとなっていく。
しかしこの作者はその「強烈なイメージ」を追及していると思う。
この作者の作品を愛するものはその絵を味わう為、何度も頁を反芻する事になると思う。絵画の鑑賞にリアリティやモチーフの脈絡やら理屈は要らない。唯惑溺できればいいのだ。
史実との整合?そんなものは現在を生きるものには誰にも分からない、関係ない、だから宇月原作品が好きなのだ。(引用は豊富、念の為)
今回も魅せてくれました、読後には、全山紅葉に燃える大和信貴山城の頂上に聳える天守の最上階の茶室で、松永久秀と向かい合う明智光秀、その望楼を跳ね回る金髪碧眼の果心居士が、鮮やかに蘇える。また読んじゃおう。