このページの上の「商品の説明」には、「時代に先駆けた思想をもち、伝統的権威や因習に因われずに『天下統一』を目指した『革命児』信長。だが、この広く行きわたったイメージは、はたして歴史的な事実といえるのだろうか?」と言う紹介に象徴されるように、本書は(細かな学説上の争点は別論として)従来巷間に語られてきた「天下布武」の解釈や「革命児」という信長像に懐疑的なスタンスから、信頼しうる様々な同時代史料を再検証しつつ実証的に「信長の真の姿を描く」ものと言える。著者の(従来巷間の)信長像に対する懐疑的なスタンスは一貫していて明確であり、例えば「天下」の意義の考察(98〜111頁)や正親町との関係性(
京都馬揃えの意義:86〜92頁)など首肯できる考察もある。しかしながら最初に結論(従来説への否定・批判)ありきという方法の故か、多少強引ないし一面的な解釈も散見される(後述参照)。構成・内容は、このページの「登録情報」最下段の「目次を見る」の概略の通り、「はじめに」で「信長の箱」として(細かい部分での諸学説は格別)従来の巷間に観られる「革命児」や「天下統一」の野望と言った評価に対する懐疑を概説、6章からなる各論を展開した後で、「おわりに」では「桶狭間」の再考(研究)に観られる“ドラマ”性等を引き合いにしながら、従来巷間の信長像に疑問を呈する総括を行う。構成・内容はこのページの「登録情報」最下段の「目次を見る」に譲り、以下では個人的に興味を惹いた(または異論のある)トピックを幾つか取り上げたい。
まず著者は信長の岐阜時代以降に使用された「天下布武」の印判の「天下」の意義について、当時の情況と史料解釈などから、信長の意図する「天下」とはもっぱら「五畿内における将軍秩序樹立のスローガン」(110頁)と観る。これは確かに上洛時期の信長の勢力等(尾張・美濃、近江半国程度)から観れば、合理的かつ説得力のある解釈であると思う。ただ信長の生涯全てに渡ってどこまでも著者の描く「将軍秩序」、即ち「五畿内」という「天下」に服従ないし留まっていたかは疑問の残るところで、義昭追放後の信長の版図拡大は、著者の右「天下」解釈では合理的な説明に無理があるように思う。そもそも著者は各有力大名への信長の書状を、額面(文言)通りにその真意を解釈する傾向が強いが、当時の大名間書状が言わば“外交文書”という一面を考慮しないのは妥当ではない(195〜201頁ほかの解釈)。例えば元亀年間の浅井・朝倉と信長の対立は、元々義昭名に依る上洛命令を無視した朝倉征伐が端緒であり、後に比叡山を含めた和睦は信長側の不利を示すものではあったが、むしろ信長の手の内にある義昭の「上意」を巧みに利用した戦術と観る通説が妥当である。上洛後の信長は往々にして自己の窮地に正親町天皇の勅命に依る講和や綸旨を巧みに利用している(元亀元年、天正元年、天正8年など)。つまり義昭自身の権威というよりも、「五畿内」の「天下」において信長の武力で再興した事実上の“幕府を支える朝廷権威”の結果と観るべきであって、信長が「将軍の権威に守られる立場」にあった(46頁)と言うのは、些か過大な評価と言わざるを得ない。それならば信長自ら再興した幕府の役職に(最後まで)就かなかったことと、論理的な整合性が取れないからである。
当時信長の戦術につき表層的に解釈することが妥当でないのは、対毛利との戦略にも現れている。本書では、信長側との和睦交渉にあたった安国寺恵瓊の書状(天正8年5月)について考察があるが(132〜137頁)、この中で信長は(宇喜多直家の件は格別)著者の解釈通り、毛利との和睦を志向していると観うる。ここで著者は「信長はまごうことなき天下人であり、天下人とは、諸国の大名との和睦により平和の実現をめざす存在と認識されていた」と評するが、これは一面的な理解であると言うべきだろう。なぜなら同じ天正8年8月、島津義久宛の書状(島津・大友の和睦勧告)では「来年(信長が)安芸の毛利氏の討伐に出陣しようとする」旨が記されており(200頁)、実際大友氏は北
九州にあって、毛利の背後を突く重要な戦略的位置にあったことからすれば、右書状は毛利征伐の計画を裏付けると観るべきだからである。表面上は毛利との和睦を探りつつも、他方で背後の敵(大友氏)に接近すると言う(当然にあってしかるべき)戦略が窺われるのである。石山合戦で毛利の援軍に苦しめられてきた経緯・情況と山陽・山陰地方情勢の天正8年頃を考慮すれば、著者の描くほど単純な「天下」情勢(和睦一筋の平和志向)ではないと言うべきだろう。著者はかかる2件の書状を参照しながらその関係性について何も解説していないが、巷間信長像の懐疑に拘泥するあまり、安土城時代以降に変遷していく信長の戦略の多面性の評価、ひいては「天下布武」の内実の変遷を見誤っているように思える。
またいわゆる「安土宗論」について、著者は信長が法華宗側に示した条件、つまり「負けた場合には
京都及び信長分国中の法華宗寺院を破却されても構わないと連判状を出して臨む」べきこと、そして「それは余りに酷い条件だと思うなら、宗論を止めてこのまま帰る」べきことをして、「浄土宗との和解を斡旋」したこと、及び「法華宗の弾圧を意図した」ものでないと解している(176頁)。しかし右「宗論」は元々法華宗側が仕掛けたものであり(175頁)、法華宗側が自ら「宗論」を仕掛けておいて素直に引き下がれる道理にないこと(既に
京都等から僧衆が参集)、右のような一方的な信長の条件提示に対して今更「宗論」を止めることなどできるはずもないのは、火を見るより明らかであろう。また『信長公記』(巻十二)には、信長配下に法華宗徒が多いことなどから信長が調停に乗り出したことが記されており、「法華宗の弾圧を意図した」ものかは別論として、法華宗が信長の「支配の上でとかく障害になった」(176頁)との一面を否定するのは、事実評価の合理性を欠いていると言うべきだろう。法華宗徒は元々
京都町衆に多く、歴史的にも“天文法華の乱”のような宗教戦争も経験するなど自立(排他)意識が強い。元亀4年の信長に依る“上京焼き討ち”もかかる
京都町衆の自立意識(排他・敵対性)が影響している。「宗論」における信長の措置(条件提示)は、法華宗側の逃げ道を塞いだ上で、事後の始末(攻撃的な法華宗を抑圧する:177頁)を意図したものと素直に解すべきであろう。以上、全体的に豊富な史料参照と解釈に基づき実証的であり一部の考察には首肯できるものもあるが、巷間信長像の懐疑(否定)に拘泥するが故に、表層的ないし合理性を欠く解釈も散見される。