後発だけあって、それまでのリサ・マリー・ライス節を濃縮したような、サスペンスなロマンス満載のジェットコースターストーリーです。著者の小説をサンプル的に一冊読むならこれが絶対おすすめです。
ヒロインが非常に良く描かれており、過去を無くした生ける屍的な存在から、知的で美しくしかもタフな、女からみても「いい女」タイプへと自分を取り戻す過程がすばらしく、読み手である私もある種の癒しを感じました。
ヒーローはこの作者の小説によく出てくるタイプの、角刈りが似合いそうなマッチョマンですが、「男は優しくなければ生きている資格がない」(←古すぎですね><)と言うタイプの、寡黙な頼れるヒーローです。ヒロインは、自分が気がつくよりずっとずっと以前からヒーローに愛されていたんだ…という、この辺もツボでしたね。
特に落ち込んだときに読むと、きっとパワーを貰えると思います。
もうちょっと悪役がかっこよければ…つうかフタを開けたら小物すぎ!って感じるのは贅沢ってもんでしょうかね。
いずれにしても、どんなにうまく立ち回っても、本人の全くあずかり知らぬ所で、どこかで誰かに愛され、そして憎しみを買っている、人間ってそういうものなのかもしれません。
今、日本語でR. K. ナーラーヤンが読めるのは、短編を除くとこの本だけだと思う。しかし、この翻訳(袖山榮眞氏の訳業による)の日本語の素晴らしさを僕は手放しで喜ぶことできない。エブリマンズライブラリには、ナーラーヤンの中編小説集七編を納めた二巻があるのに、わが国におけるナーラーヤンの翻訳はこの中篇小説一編にすきないのだ。この文学全集における翻訳の機会を袖山氏は、ナーラーヤンのどの小説を翻訳すべきかで悩んだと僕は想像する。袖山氏は自分の最も好きな作品でもなく、またナーラーヤンの最高傑作でもなく、日本の読者にまずは読んでもらいたいという一念で『マルグディに来た虎』を翻訳された気がしてならない。では、僕ならば何を選ぶかと問われると答えに窮するけれでも、少なくとも『マルグディに来た虎』ではない気がする。
『マルグディに来た虎』(原著1962年刊)は、虎が語る自らの半生記で漱石の『
猫』にもなぞらえるユーモア小説だ。袖山氏の解説では(これも素晴らしい文章で、ナーラーヤンの小説世界の背後にある宇宙論的な広がりを悠々と論じている)、ナーラーヤンの『虎』と漱石の『
猫』とでは決定的に違うのだと論じているけれども、要するに僕が言いたいのは『虎』が良質のユーモア小説で、漱石の『
猫』以上にかなり笑える作品だということだ。
逆に、僕がなぜこの小説を最高には好きになれないかという点にも触れたい。虎が映画撮影の最中に虎使いを一撃のもとに殺害し、校長室を占拠するにいたるまでの物語は申し分ない。ただ、師(サンニヤーシー)が登場してから以降の展開が面白くない。師が虎を手なずける超能力もひとつ説得力がないし、師がもとはごく普通の勤め人だったという街の人々の噂も見え透いている。一番いけないのは、師が虎とともに人里はなれれたメンピ山の洞窟に隠棲しているところに妻が訪ねてきて「あなたは何をバカなことをやっているのだ」と一喝するところだ。僕は完全に白けてしまった。・・・ナーラーヤンは、やはりヒンドゥーの価値が万全であるよりは、そこに亀裂がはいろうとしている時を描かせたほうが優れていると思う。
痛快とは言わないまでも筆者が生活した
エジプトでの生活での視点から、上手く人々を表現しており、さっぱりと読めるし、話題も豊富で、何より視点が冷静であり客観的に捉えられていることから作者の素直さ(?)や偏執さなしに読める。惜しくは後部でキリスト教のディープな部分を取材(?)されているのだが、もう少し読み残し感が残ってしまった。