アシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)によるとてもステキなピアノ曲集がリリースされた。「ウォーキング・イン・ジ・エア」と題して、イギリスの作曲家、ハワード・ブレイク(Howard Blake 1938-)の作品集。2013年の録音。
ブレイクの作曲家としての背景について、私は詳しいことを知らないが、彼の育った家庭では、母はピアノとヴァイオリンを弾き、父は教会の聖歌隊でテノール歌手を担っていたそうだ。いずれもプロの音楽家ではないが、十分な音楽的な素養のあるところで育ったのだろう。18歳でロイヤル音楽アカデミーの奨学金を獲得し、作曲の勉強をするが、その後、そのまま音楽家の道を志したわけでなく、映画映写技師となる一方、パブやクラブでピアノを弾いていたらしい。そんな彼があらためて音楽関係者の目にとまり、やがて、映画音楽を中心にその名は知られるようになった。
彼の名を一躍世界的なものにしたのは、1982年に、アニメーション映画「スノーマン」の音楽を担当してからだ。そのテーマ曲が、本盤の冒頭に収録され、アルバムの
タイトルにもなっている「ウォーキング・イン・ジ・エア」である。現在まで50年を超える長きにわたって、作曲を中心とした音楽活動を行っていて、その作品数は650を越えているという。相当な多作家だ。当アルバムで、ブレイクと親交のあるアシュケナージが選んだのは、以下の曲たちだ。
1) ウォーキング・イン・ジ・エア op.489u(映画「スノーマン」から)
2) ミュージック・ボックス op.489n(映画「チェンジリング」から)
3) ララのテーマ op.604(映画「決闘者」から)
4) ヴォーヴァへのプレリュード op.640
5) スピーチ・アフター・ロング・サイレンス op.610
6-13) 8つの性格的小品 op.177
14-22) 2台のピアノのためのダンス op.217a
23-26) 2台のピアノためのソナタ op.130
27) 幻想曲 op.1
28) 4つのやさしい小品 op.1b
29) ロマンツァ op.489o
30) ハイク・フォー・ユー・チー op.567
31) パーティング op.650a
2台のピアノのための作品では、第2ピアノをヴォフカ・アシュケナージ(Vovka Ashkenazy 1961-)が担当している。
これらの作品は、ジャンルとしては環境音楽とかイージー・リスニングと呼ばれるものに入るのかもしれない。基本的には三部形式に近い小品集である。しかし、旋律に抒情的な美しさがあるとともに、感情的なものを抑制する節度が働いているため、気品を感じさせる仕上がりとなっている。
ショパンやラフマニノフを彷彿とさせる旋律や音色にも楽しむことができる。
それにしても、アシュケナージのピアノは美しい。当アルバムの収録時間は80分を越えていて、そのことは、アシュケナージが一つでも多くの作品を弾きたい、聴いてほしい、と考えた結果にちがいない。そして、そんなアシュケナージの演奏は、作品の「良いところ」を伝える最善のアプローチをしたものに感じられる。
冒頭に収録された3曲はいずれも親しみやすい映画音楽であるが、アシュケナージの美しい
タッチは、旋律の通俗性を浄化させ、ゆとりをもった足取りは、聴き手を落ち着かせてくれる。スノーマンの旋律が、これほど結晶化した美しさをもって表現されると、この音楽の背景云々のことなど忘れ、ひたすらにその世界に没頭してしまう。
これを聴いていると、私は、アシュケナージが弾いた日本のアニメーション映画「ピアノの森」のテーマ曲を思い出した。私は、それが聴きたくて、サウンドトラックを購入したものだ。篠原敬介(1959-2011)の書いたテーマ曲が、光の粒になって降り注ぐように響いていた。
当盤の他の純音楽的作品もたいへんな魅力に溢れている。特に「スピーチ・アフター・ロング・サイレンス」と「12の小品 op.177からの8曲」の2編が美しい。私は「8つの性格的小品 op.177」の第1曲「前奏曲」と第8曲「スケルツォ」を聴くと、自分が小さかったころのこと、そして雪が降り、街灯がともり始めた薄暮の中を歩いていたときの風景を思い出した。幻想的な「白」と「灯り」の世界。どうやらブレイクの音楽は、「雪の景色」ととても相性が良さそうだ。また、昔のことを思い出すような懐古調の語り口も魅力的だ。
「2台のピアノのためのダンス」は
ジャズふうのナンバーで、即興的なインスピレーションに満ちたもの。ヴォフカとの息の合ったコンビネーションで、軽妙な語り口が聴きもの。
以上のように、たいへん美しいピアノ曲集となっている。落ち着いて、難しいことは忘れて、きれいなピアノの響きを聴きたい、という方には、特にオススメ。なお、「ヴォーヴァへのプレリュード」はアシュケナージの名前の
アルファベットから旋律がつくられたとのことです。