90年代に一度、日本で“ハイスミス・ブーム”が起きた。発端は、ミステリー界の革命的才女ルース・レンデルが「ハイスミスを師と仰いでいる」と発言したことが伝わったことだろうか。それまでハイスミスは、
ヒッチコックが映画化した『見知らぬ乗客』の原作を書いた作家としてしか評価されてこなかったから、出版社が先を争って翻訳を進めたあの時期は、我々天の邪鬼なミステリー読者には、幸せな時代だった。ハイスミスは、本人もかなり性格が歪んだ偏屈なオバさんだったと言われている(真偽のほどは不明)。
しかし彼女の作品に他のものと違う輝きを放たせたものは、その偏屈さにあったような気がする。「人嫌い」「孤独を好む」「いつも冷ややかに他人を眺める」そんな彼女の資質が、胸が苦しくなるような独特の心理描写や、登場人物に生身の陰影を与えたのだと思う。作者の眼は常に乾いて冷徹なのだ。本作は、
フランス映画の名匠ルネ・クレマンがメガホンをとり、アラン・ドロンが美青年ぶりでスターにのし上がった『太陽がいっぱい』の原作にあたる。99年に
ハリウッドがオールスター・キャストでリメイクした『リプリー』はさらに原作に忠実だ。
改めて小説を読み直してみると、ハイスミスの巧妙なプロットにため息が出る。
同性愛者で貧しい育ちの若者リプリーがなりすました、傲慢で裕福なディッキーは、絶えず正体がバレることの恐怖と戦いながら、言葉巧みにスレスレで危機をかわしていく。ディッキーを演じている時も、リプリーに戻った時も、周囲からの疑惑に眼差しに晒されながら、「talented」な悪知恵でどうにか切り抜ける。物語の展開に始終ハラハラドキドキさせられる、こんなミステリーはちょっと他に類を見ない。
幼い頃、初めて親や友達に嘘をついた子供のように、気づけば掌にじっとり汗がしみでるような焦燥感。その嘘がバレないようにまた嘘をついて、蟻地獄に嵌っていくような静かな恐怖。嘘は必ず破綻して周りから蔑まれることがわかっている。それなのに嘘を続けなくてはいけない恐怖。この作品にスリルを味わうのは、そのような日常の感覚の延長線上に、シニカルに描かれた殺人事件だからであろう。
さり気なく人間の本質に迫った、まったくもって見事な筆力だと感服する。
この手の靴は実際の
店舗で買うと結構高かったりしますが、安かったので買いました。
初ブーツだったのですが、とてもいい品でした。
足もちゃんと膝まで入りました←
ただ、私の
身長が低いので、膝上まできてしまいます←
ブーツの質はとてもいいです。
スタイルがいい人なら普段使いでもいけると思います。
この靴に合う服を買いたいですwww
マッド・デイモンが唄うマイ・ファニー・バレンタインも意外によいかもって・・・私はこのサントラを買って
ジャズにはまりました。かなりいい曲揃ってます。それもそのはず、この映画、音楽にもかなりこだわったらしい・・・、とか。
フランク「今まで誰かを殺したことがありますか?」
トム「ああ、あるよ」
フランク「ひとりだけじゃなくて?」
トム「正直にいうなら、そうだ」 (119ページ)
トムとフランク。出会ってまもない二人が交わすおぞましい会話。なぜトムは16歳の年端も行かぬ少年に殺人の告白を余儀なくされたのか?
本シリーズの過去三作で稀代の詐欺師を演じてきたトムは、様々な目的でいつも自分のほうから男たちに近づいていくのだが、シリーズ四作目の本書では、フランクのほうからトムをたずねてきた。
フランクは、彼が米国大企業社長の息子であること、その父が崖から転落死したこと、家族といるのが嫌になり父の葬式の後
フランスにやって来たこと、ガールフレンドのテレサにふられたことも逃避行の理由であること、などをトムに打ち明ける。それでもまだ「なぜ?」は残る。なぜフランクはトムに近づいてきたのか。
トムの誘いにのってついにフランクは最大の秘密を打ち明ける。奇妙なことに、トムは正直に打ち明けられたことに納得せずより詳細に事実を語らせる(ときにはまるで警官の尋問のように)。そしてさらに奇妙なことに、君にその気があるならすべてを文章にぶちまけてしまえと、告白の儀式化を促すのである。
フランクはその誘いにも応じた。ちょっとした仕掛けも添えて。つまり、彼は告白文をしたためながら、打ち明ける相手がなぜトムでなければいけなかったのかも告白するのである。
フランクは書き上げた文章をトムに読ませて感想を求める。上述の2人の会話はその直後のものである。トムとフランクのこういったスリリングな会話や奇妙な友情が本書の魅力である。そしていろいろなことが明らかにされ、それでも最後に最大の謎が残る。母親に嘘をついてまで守った自分の秘密をトムに告白したあと、なぜフランクはあのような行動にでたのだろうか?本当にフランクはトムに真実を語ったのだろうか?