時折とりだして、適当なページからぱらぱらと流し読みを始める。気がつくと没頭していて結局全部読んでしまう。そんなこんなでもう十回は読んだだろうか。
ミステリ作家/評論家の笠井潔が『虚無への供物』を「起こらなかった殺人事件」をメインテーマに解題してみせたことがあったが、それはおおむね正しい。
『函の中の失楽』のミステリ作家竹本健治が、後に自作を「ミステ
ロイド」(ミステリのようななにか)と定義づけて連作をものしたのは、実作者としていっそう正しい(下品だったけどネ)。
はりぼての日常を、無意味な風景を、陳腐な痴情を、極彩色の万華鏡に変える手法がここには描かれている。
読者は、万華鏡の無意味な色彩の乱舞に意味を見出そうとする。
でも、厚化粧の下の素顔は、どこにでもある、一度見ただけでは忘れてしまうようなありふれた顔。
それを「虚無」と呼ぶ。
小栗虫太郎『黒死館殺人事件』も、夢野久作『ドグラ・マグラ』も、そしてこの『虚無への供物』も、描かれているのは「大いなる嘘」だ。ただ、半ば無意識だった前ニ作に対し『虚無』は醒めきった眼で、冷徹に、スタイリッシュに嘘を配置した。『虚無』は読者を誘う。嘘を完璧に構築するための共犯者になれと。
これはミステリじゃない。アンチ・ミステリだって、最初からいってるじゃないか。
1954年、洞爺丸沈没事故で両親を失った蒼司・
紅司とその従弟の藍司。悲しみにくれる間もなくその年の暮れに、さらに
紅司が自宅で入浴中に死体となって発見される。風呂場は完全な密室で誰かが侵入した形跡はないが、果たして彼の死は本当に自然死なのか。
蒼司の友人である俊夫、その許婚の久生、そして友人の亜利夫ら素人
探偵は、この密室事件を殺人と断定して真相を推理していく。しかし犯人にたどり着く前に第二、第三の事件が発生していく…。
上下巻で800頁超もある大作ですが、文章は平易でぐいぐいと引っ張られるように読んでしまいました。1964年に書かれたこの作品は、最近の社会派推理小説のような骨太な正統派ミステリーというよりも、一時代前の乱歩や正史といった作家が築きあげた妖美な怪異譚という趣の物語です。下巻399頁にヘッセの「デーミアン」の名が引かれていますが、まさにあの小説のように、「あやかし」と形容するが相応しいほど浮世離れした淫靡な美しさを見ます。
私はさほどミステリーに詳しくはありませんが、こうした懐かしき時代に属する
探偵推理物語は必ずしも多くの読者を現代に獲得することができないのではないでしょうか。熱烈なるファンを得たカルト的要素を含む小説であると同時に、最近のミステリーファンを寄せつけないところが多分にあります。
ですから裏表紙にある「推理小説史上の大傑作」という謳い文句は誤解を与えると思います。むしろ怪奇趣味に溢れた、奇妙な浮遊感をずっと味わいながら読む作品といったほうがふさわしいのではないでしょうか。
軽い目まいを覚えながら頁を閉じた一冊です。