ヒッチコック監督に関する研究書、入門書はいろいろありますが、監督自身とフランソワ・トリュフォーの対談を収めた「映画術」のほかに1冊選ぶとしたら、本書がよいのではないでしょうか。作品のデータやあらすじといった基本的な情報がおさえてあり、批評も日本人批評家によるものと海外の批評の翻訳と、両方読めます。スチル写真も豊富です。後半、各ページの隅にコマ撮り写真が連続でのっていて、パラパラめくると「サイコ」のシャワー・シーンが見られるようになっている趣向はケッサクだと思いました。
多少画像の不鮮明な作品もあったが全て面白かった。特に「私は告白する」の心理的サスペンスの盛り上げ方は圧倒的、さすが
ヒッチコック。
勿体無くて誰にも紹介したくない。
ところで、私は幼い頃から真っ直ぐに走れない。
アメリカの作家オースターの小説を読みたいと思い付くと、
そのものでは無くオースターについて書かれた解説書を買ってしまう。
映画を観たいと思い立つと以下略。
という訳でこの本を手に取った。結果は大正解だった。
2012年の春から秋にかけて映画美学校アクターズ・コース在校生の為に
行われた講義の採録。だから内容が新しい。
255頁もあるが、7回の講義毎に章が並んでいて飽きない。
「次にこの映画を観て行きたいと思います」
「まず、簡単にストーリーを紹介します」といったユーモアの溢れる軽い、
しかし、大事な事は漏らさない口調で始まり、
映画の該当シーンの静止画のコマ送りが挿入されている。
そして、「今見た箇所の此処、お解かりになりましたか?」
「実は、このシーンの此処がこうなんですね」
「それはどういう意味を持つかと言うと…」という流れである。
映画を知らない人も十分について行ける、優れて工夫された作りだ。
例えば、増村監督の「曽根崎心中」なら、
そのワンシーンで梶芽衣子が何処も見ていない事を指摘する。
人間は何かを見ている時は、別の何かが見えていない、
彼女は死を見ていたのだ、と。
此れが文学だったら、
眼差しの先に在る物=剃刀の形状や輝きを書くことで間接的に視線を表すか、
「芽衣子は何も見てはいなかった。
その黒く濡れた瞳は、掴んだ剃刀に固定されたままだった。
剃刀を見ているのだろうか?否、その時、芽衣子は死を見ていたのだ」
等と説明を加えるか、という事になるだろう。
情景描写や内面描写を加えながらストーリーを展開していく小説は、
映画と違って鬱陶しく無いだろうか?
映画は、周到に計算された動線の配置で、人物をどう動かすか決め、
訴えたい事柄を視覚的に実在させなければならない。
時間が限定されているから、始まりが在って終わりが在る、
それが映画と単なる映像の違いで、緊張感の源である。
一方、俳優が自分の内面を表情として表そうとすると、
それは既に観客が知っている事の追認でしかなくなり、説明過剰になる。
リ
アリズムとは、時に大胆に省略して現実の形態模写を踏み越え、
無意識に訴えかける厚み=豊かさを追求するものだ。
ところが、カサヴェテス病になると、
たった一つの感情に支配されてしまって一本調子=単調になる。
内面しか見なくなって、行動が忘れ去られ、
沈思黙考していたり、スタティックに人が居てそこで喋り続けたり、
言い淀んだりしているだけになる。
どんな役にも自分の内面を投影し、
あの人もこの人も自分の分身でしか無くなっていって、
世界がモノローグ=独白になってしまう。
さて、彩流社の「現代作家ガイド1ポール・オースター」267頁に、
彼の小説「幻影の書」の粗筋が載っているが、この粗筋が不自然なのだ。
「しかし、彼は「撃つなら撃て」と挑みかかり、奪った銃を自分のこめかみに当てる。
死と隣り合わせの状況の中、デイヴィッドは一種の救済を得る。
そして、最終的にはアルマと心を通わせ、翌朝、共に…」
これでは、動線を無視して「人形を動かしているだけ」ではないか?
そうしなければ成り立たない欠陥か、文学のみの文法か。
原作を映像化する時、結末を変えたり、性を入れ替えたりして、
しばしば失敗するのは、元々の瑕疵にも原因が有りそうだ。
ハーマンと組む前の4人=ジョンウイリアムス、ディミトリティオムキン、フランツ
ワックスマン、ロイウエッブたちが書いたフィルムスコアをコンピしたもの。さすがに音楽を心理的な振幅を変化させる重要なカギと考える
ヒッチコックならではの音楽がならぶ。聞く者を『はめる』しかけを好むこの監督。音楽も相当に美しく、かつ個性的。
映画を見ていなくとも楽しめるサントラだ。.
10点中8点