ブランド狂い、整形狂い、ホスト狂い。
著作を読んだことがないくせに、中村うさぎのことは大嫌いだった。
というか、知ろうともしないまま軽蔑していた。
しかし、この本を読んで、中村うさぎに興味を惹かれ、一気に著作を漁読した。
するとかつての私にはただの愚行に見えた様々な狂行にも、
客観的な視点において痛々しいほどの内省が試みられており、
徹底して欺瞞と嘘を叩き捨てた先での本音を言及しようと努めているではないか。
とてつもなく真面目で誠実な作家精神の躍動を感じさせられたのである。
優花ひらりに対してもそうだ。
キチガイ、障害者、精神病、痛いヤツ。
このように対象を突き放して嘲笑し、底意地の悪い揶揄に陥ること。
それは対象を前にした思考の停止であり、追求の放棄であり、作家としての敗北を意味する。
たしかに優花ひらりはとんでもない難物であろう。
さっさと何らかの判断をつけて見切るにこしたことはない。
だが、中村うさぎは作家として優花ひらりの難解さとあくまで格闘するのである。
そして<優花ひらりには他者が存在せず、自分には他者が存在する>という自意識の差異に到達した。
まさにこれ以上は
分解できない絶対の解答であると思う。
かつて
サルトルは「嘔吐」において、<他者が存在する以上、自らの振る舞いはすべて演技となる>と、
社会的生物としての人間の本質を看破したものだ。
中村うさぎは他者の存在する世界に生きる者だから、
彼女の行動は見られることを前提としたいわば演技である。
優花ひらりは他者の存在しない世界に生きる裸者なので、
彼女の行動はすべて動物の食事や排泄と変わらない純粋なものである。
いったいどちらが希望に満ちた世界なのか?
いったいどちらが絶望に満ちた世界なのか?
人間が、生きることを問うならば、これはどうしても避けられない原則的問題となるはずだ。
私としては中村うさぎに最大の敬意を表したい。