自己韜晦なのか、異様に厳密な文章上の各要素(単語、熟語、概念語、名詞等)、文脈への規定性なのか、将又、著者一流のヒューモアなのか、大西巨人の文体は全く独自孤高である。このこれまで未発表だったという作品でも、それは同様である。 三篇中、真ん中の『白日の序曲』は大西巨人の『悪霊』(ドストエフスキー)とも言うべき、緊密さ、奇怪さ、息苦しさのようなものを感得させる。ストーリーの素材はまさにスタヴローギンであるが、文体がそのように思わせもする。意識の流れというような方法性よりも、『罪と罰』のスヴィドリガイロフの自殺へ至る描写を想起した。あれほどの自在性よりはやや人工的なものを感じはするが、その緊密さはやはり大したものだ。しかも、本作でもあらためて思うのは、大西巨人は「喜劇」の作家であるということだ。 喜劇のスタイル、それが大西巨人の文体なのかもしれない。散文精神の一つの極北であろう。
「神聖喜劇」と言う題名はまさに当を得ている。決してあからさまに滑稽な描写があるわけではなく、内容も所謂喜劇的なものでは決してないのだが、普通の場面、真剣な、真面目な(滑稽・喜劇とは正反対な内容)場面の中の一行で思わず笑うことを禁じ得ない。そのような箇所が幾度となくこの小説には現れる。大西巨人という小説家の文章力の賜、表現力の豊饒さと言ってしまえば簡単なのだが、近代・現代日本文学の名作と呼ばれるものを読んできた上で思ったことだが、表現力の豊饒さ、文章力の賜といったものだけでは決してこのような体験を読者に与えることは出来ないのではないだろうか。ではいったいなんなのかと問われても上手く答えられない。わからないことは「奇蹟だ」と言ってしまえばどうにかなっ!てしまうので、たぶん本作は奇跡的な書物だと思う。
数年前、某フリーターが発表した『丸山眞男をひっぱたきたい』というエッセイが評判になったことがある。 戦時下や軍隊内においてこそ、格差・階級・差別が、転倒もしくはリセットされるという趣旨の、きわめて 単純で幼稚な戦争待望論であった。
上記某フリーターはじめ、上記エッセイに賛同した人々に、ぜひ本書を読んでもらいたい。
例えば、被差別部落出身かつ犯罪者の一兵隊 冬木の発する以下の一節をどう考えるか。
― 「いやになる。」 (中略) 「営門をくぐって軍服を着れば、裸の人間同士の暮らしかと思うとったら、 ここにも世の中の何やかんやがひっついて来とる。ちっとも変わりはありゃせん」
漢文調の文体、知的な言説、鋭く冷徹な洞察力など、表面上は男性的でハードな作品なのだが、 そのじつ、他者への「優しさ」「共感」に満ち溢れた、愛すべき傑作である。
以下余談だが―
映画 『戦場のメリークリスマス』 (あるいはヴァン・デル・ポストの『影の獄にて』) が好きな人は きっとこの作品も気に入ると思う。
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