中井英夫(1922-1993)、1964年の作。
〈犯人〉は「不条理」の中に「意味」を渇望して殺人を為し(「人間らしい悲劇」「人間らしい死」「人間の誇り」「人間の秩序」・・・)、〈
探偵〉は「事件」の中に「解釈」を求めて推理という名の駄弁を弄する。そしてそれはいずれも、【虚無への供物】でしか在りようがなかった。
〈犯人〉は世界の不条理(因果な事件事故、及びそれがもたらす苦悶)と社会の虚無(〈
探偵〉たちの駄弁)とに対峙していた。そして〈
探偵〉とは、この物語を読み進めている他あろう我々〈読者〉の姿である。
この物語の冗長さは、〈
探偵〉の則ち〈御見物衆〉〈読者〉〈我々自身〉の駄弁の冗漫さを表しているのではないか。
"物見高い御見物衆。・・・。全部とはいわない、しかし、この一九五五年、そしてたぶん、これから先もだろうが、無責任な好奇心の創り出すお楽しみだけは君たちのものさ。何か面白いことはないかなあとキョロキョロしていれば、それにふさわしい突飛で残酷な事件が、いくらでも現実にうまれてくる、いまはそんな時代だが、その中で自分さえ安全地帯にいて、見物の側に廻ることができたら、どんな痛ましい光景でも喜んで眺めようという、それがお化けの正体なんだ。***には、何という凄まじい虚無だろうとしか思えない。・・・、そんな虚無への供物のために、***は一滴の血を流したんじゃあない。***が***を殺したのは、人間の誇りのためにしたことだが、どっちにしろ海は、もうそんな区別をしやしない。***のしたことも、別な意味で"虚無への供物"といえるだろうな"
社会は、私を匿名多数の眼差しに消してゆく。私の吐き出す言葉が、不可避的に社会そのものの一分子に堕し、私自身に疎遠な異物となり、ついには私自身を抹消する。私の実存は、社会という虚無に溶け消えていく。社会に在っては、私の言葉も、ここに出てくる〈
探偵〉たちの駄弁と何ら変わらないのである。だからこそ、〈
探偵〉は我々〈読者〉のことなのだ。現に、私は匿名多数の駄弁に取り囲まれているではないか。その中には、確かに私自身の声も混じっているのだ。「私は、それとは別の、何かなのだ」という叫び声が。匿名の誰かが発する虚しさとと同じ響きで。それはまさにこの文章のことであり、この文章の読者のことを云っているのだ。ここにははっきりと、自己関係的機制が表れている。
本作は、現代にまで響く告発の書である。そしてそれは不可避的に自己関係的機制をなすのである。ここにこそ、本作がメタ・フィクション、アンチ・ミステリとならねばならぬ理由があるのではないか。
"推理小説がもはや困難だという最大の理由は、現代にふさわしい、新しい悪の創造を、作家ではなく現実の事件のほうが片端からやってしまうせいだろう。"(中井英夫)
"そしてそのジャンルについて、現代ではもはや成立不可能だという認識を持ってしまえば、打つ手は一つしかない。推理小説の形をとりながら、このジャンルの不可能性を――立証するとまではいわなくとも、強く暗示するような作品を書くことである。その「反推理小説」の中に、ゲームの純粋性からはみ出してしまうものを、推理小説としては不純な要素を、夾雑物を塗りこめることである。中井英夫の脳裏にはそうしたいわば敵中突破の戦法が閃いたのではないだろうか。"(出口裕弘)
「三大奇書」という括りで色物扱いしてしまうには、余りに勿体ない傑作。