自己韜晦なのか、異様に厳密な文章上の各要素(単語、熟語、概念語、名詞等)、文脈への規定性なのか、将又、著者一流のヒューモアなのか、大西巨人の文体は全く独自孤高である。このこれまで未発表だったという作品でも、それは同様である。
三篇中、真ん中の『白日の序曲』は大西巨人の『悪霊』(ドストエフスキー)とも言うべき、緊密さ、奇怪さ、息苦しさのようなものを感得させる。ストーリーの素材はまさにスタヴローギンであるが、文体がそのように思わせもする。意識の流れというような方法性よりも、『罪と罰』のスヴィドリガイロフの自殺へ至る描写を想起した。あれほどの自在性よりはやや人工的なものを感じはするが、その緊密さはやはり大したものだ。しかも、本作でもあらためて思うのは、大西巨人は「喜劇」の作家であるということだ。
喜劇のスタイル、それが大西巨人の文体なのかもしれない。散文精神の一つの極北であろう。
登場人物のほとんどにリ
アリティを感じない不思議な小説。
名作・佳作というよりもしかしたら奇作かも知れない。
主人公・東堂太郎の異常な記憶力 にリ
アリティがないのは良いとして、
一兵卒が軍隊内で延々と「正論」を述べることなど可能だったのか?
でもそんな詮索を乗り越えてやはり面白 い。
確かに大作だが、司馬遼太郎の長編をたくさん読むなら、
一度でいいからこっちも覗いて損はない。