難しいと言えば、難しいかもしれません。でも、今までに五行という単語なんて聞いたことがない!という人でも、おそらく発見のある内容です。例えば、コラムでは、七五三や十二支や鬼門のことなど…、意外に生活に浸透しているものなんだな〜ということが分かったりします。
私が面白いなと思ったのは、国を治める人にしても、経営者にしても、本人の資質だけでなく、時代に合致しているかどうかもポイントだということ。時代が今どんな意味合いかとか、何代目なのかというところとも関係しているというのです。一般的な時代の流れを読む・・・というのとは、また捉え方が違います。時間と空間で、立体的に捉える読み方って、他では聞かないように思います。
東洋史観の基本的な考え方を記した原理部分の解説から読むもよし。実際の例の部分を読んでから、原理部分を確認するもよし。難しいなと思う人は、まずコラムを読むもよし。
陰陽五行の概念は、ないよりあった方が、思考の幅も広がります。自然の法則ですから。自分も自然の一部だということをより実感できます。何か問題に直面したときのヒントもそこにあります。自然の法則の秘密を教えてもらえる・・・そんな感じのする本です。
いつも関空から堺に向かう時、電車で貝塚の駅を通ると何とも言えない感慨がこみ上げてきます。この場所からオリンピックで金メダルをとったバレーボールチームが出たという歴史的事実への回顧とそれを支えた紡績産業への挽歌がまじりあった不思議な感情といったらいいのでしょうか。もっと大げさに言うと「昭和への思い」といってもいいのかもしれません。そういう意味では、この作品は私のために書かれたかのようです。
ただ作品の構成と語りのスタイルは前作(
商店街はなぜ滅びるのか 社会・政治・経済史から探る再生の道 (光文社新書))と同じように著者独特のものです。作品は二つの部分に分かれています。前半は理論編といったらいいのでしょうか。後半のケーススタディが目標とするテーゼの証明のためのテーゼの抽出がねらいでしょうか。ここでは日本におけるレクリエーションの登場とその発展が歴史的な構図の中で跡付けられていきます。ただスペースが限られているため様々な興味深い論点が呈示されるにもかかわらず、統一的な整理という観点からは物足りなさが残ります。
後半はいよいよ本筋に入ります。「歴史的必然としての「東洋の
魔女」」という
タイトルははすごいですね。この部分では、バレーボールの日本的な文脈の中での受容が具体的にたどられていきます。繊維工場という特異な文脈の中でバレーボールの持った意味、そしてそれが工場から企業でのバレーボールへと変貌していくさまが、たどられていきます。全体の大きな構図だけでなく、著者の視点はコートの中の社会的な構図にまで下りていきます。「選手と女工」そして「中卒と高卒」というキーワードは見事な分析の視点を提示します。そして最後は、「
魔女から主婦(消費する主体)」への旅立ちというしめくくりです。「階級的な体の集合的な忘却」とは仰々しいテーゼです。もう少し丁寧でわかりやすい締めくくりがあってもよかったのでは。
最後に残るのは、「余りにもきれいにまとめられている外観」への逆説的な違和感です。最近の社会学者の皆さんは余りにも素晴らしい語り手なのです。
地方にこもる若者たち 都会と田舎の間に出現した新しい社会 (朝日新書)。本当にこの構図はすべてを物語っているのだろうか?特に、金メダルを取ったチームは、あくまでも分析の証明の材料として切り刻まれ、その多様な豊饒さを失ってしまったようです。
作品には、ほかにも多彩な論点が呈示されており、それらが十分に深められることなく、裸のまま投げ出されているような部分も散見されます。新書というスペースのためでしょう。また別な場所での出会いを期待しています。