東日本大震災の被災地を訪れてスケッチし、短い詩を付した詩画集。開いて見て、いつもの優しい少女が登場するまんがでないことに暫時戸惑う。15分ほどで読了。あまりのことに、翌日もう一度、少しゆっくりと読む。それでも約40分。
ここで「日の鳥」(「
火の鳥」ではない)とはニワトリのことである。突然いなくなった妻を探して被災地のあちこちを訪ねるニワトリのクールな相貌は、旧作「こっこさん」でおなじみだ。日が経つにつれ少しずつ落ち着きを取り戻す景色、しかしなお深い傷痕が残る景色のどこかに彼が溶け込んでいる。紙質のせいか情報量の割に絵が小さいせいか、しばしば彼を、目を凝らして探す。一方、詩は震災を詠うよりも多く妻への呼びかけである。日の鳥は震災に無関心のようにも思える。
一見、直球勝負の震災記録であるが、どうもわからない。作者がニワトリに持つ愛着は承知しているけれど、なぜニワトリが案内役なのか、なぜここで妻を探すのか、妻とは何なのか。彼は妻を震災に奪われ、現実を未だ受け入れられずにいるのか。突然連れ去られた大切な家族の寓意?そもそも彼は生きているのか。
ここで描かれる、妻への追憶と呼びかけは、私たちが人生のどこかで不本意にも別れざるを得なかった誰かに対して持つ、より普遍的な感情を代弁しているように思われる。そのために震災の爪痕を描いた絵と、愛惜の感情を描いた詩とが、交わることなく交差する感覚を私は持った。「あなたの心に寄り添う一冊です」とオビにある。しかし、私はむしろ分裂する。私は、作者の意図を、それが実現されたか否かを、測りかねる。
考え過ぎ?深読みは無用、まして曲解は禁物だろう。しかし、原爆を描き、
古事記編纂1300年には
古事記を描き、今度は震災を描いた作者に、タイムリーであること以上の意図を詮索するのは、無意味な試みだろうか。素直に楽しめばいいじゃん。まあそれが、世間大方の有り様だろうけれど。