ヒトラーとナチスの犠牲になった人々は膨大な人数に及ぶものと思われますが、その中で「最も有名な犠牲者は誰だ?」ということになると、おそらくは彼女になることでしょう。
アンネ・フランク・・・・・。
生前の彼女は決して人類の未知を究明したわけでもなく、多くの人の役に立つ発明をしたわけでもなく、それどころかどこにでもいるようなちょっと生意気でお喋りで、好奇心が旺盛な「ごくありふれたユダヤの少女」でした。
けれど彼女の生まれた時代自体がユダヤにとっては逆風の吹き荒ぶ時代でした。
アーリア人至上主義を掲げ、ユダヤを劣等民族とみなす男が政権を奪った瞬間から、欧州においてのユダヤの受難が幕を開けるようになる。
迫害は最初は小さな事から。そして徐々に露骨なものとなっていき・・・多くのユダヤの家族たちが街から突然連れ去られ強制収容所へと連れて行かれるようになる。
先行きに不安を見ていたユダヤ人たちは早めに欧州を脱出し、米国を始めとした他国に亡命をしましたが・・・亡命だって無料(タダ)じゃない!ってわけで、そこまで出来ないユダヤ人たちの多くは地下に潜って、只管に戦争が終わることを待ち続けたのだ。
アンネ一家もその地下に潜った面々の中のひとつなのですが、彼女たちが特異だったのは「家族ごと隠れ家へと移り住んだ」点だったそうです。非常に珍しいケースらしい。
アンネは13歳の誕生日に贈られた日記帳に「キティ」という愛称を付けて、自身の心情を書き連ねることで「己の内面との対話」を繰り返したのです。丁度思春期の入り口に立っていた彼女にとってその事と「隠れ家に移り住み、家族と他の人たちとの共同生活を始めたこと」が人格を成熟させることに多大な影響を与えたと言われます。
それが後にアンネの死後に発表された日記の内容が13〜14歳の少女が書いたものとしては「あまりにも大人びている」として真贋論争や、替え玉作者説等を生み出すことになったのですから皮肉な結果だと思います。
隠れ家には八人の住人がいましたが、アンネも当初は他の人たちと反発ばかりを繰り返し、他の方に対する不満や批判を日記に書き連ねていました。
隠れ家の自分以外の人間でアンネが圧倒的に好きなのはまずは「お父さんのオットー」。
そして後に初めてのキスをすることとなる最初で最後の恋の相手ともいえる「ペーター」。
この2人だけ・・・と言ってよい状態。後は自身のお姉さんである「マルゴー」がまあ普通かというくらいで、残りの面々はお母さんも、ペーターの両親も、歯医者のデュッセルさんも大嫌いという程に嫌っていて、生意気と思えるほどの態度を取り続けていました。
そのアンネが日々の暮らしの中で意見をぶつかり合わせ、対人においても日記においても対話を重ね、また時に外界で起きている多くの同胞の悲惨な事件を知るたびに、まず人の話をきき自分の意見を持ち、落ち着いて考察が出来るようになっていく変化が見て取れます。
アンネの死後に父・オットーによって出版された日記は「他の人を批判した部分」や思春期における少年・少女が当然のように興味を持ち話題とする「性に関する部分の描写」等は削除されていて、完全な日記が読めるようになったのはごく最近のことだそうです。
アンネたちが何者かの密告により摘発されたとき、
ドイツ軍は欧州においても敗戦を重ね、最早ユダヤ人対策に多くの時間も人員も割いている場合ではなかったのですが、密告があったからには当局としても無視するわけにはいかず、終戦間近になってアンネたちは強制収容所送りになることとなりました。
八人はバラバラに別の場所に移送され・・・飢えや病気や絶望によって僅か半年ほどの間に次々とその命を絶たれていきました。アンネは姉のマルゴーと同じ収容所に送られたのですが、そこで再会したかつての同級生であった親友にすら「絶望してしまって、かつてのおませなアンネは何処にもいなかった」とまで言われるようになってしまった。
アンネの姉のマルゴーがチフスが原因で死亡したとき、別の場所にいた父のオットーはすでに解放されていた・・・・。1番大好きだったオットーが生きているともしもアンネが知っていたならば、彼女の心に「生き抜こう!」という強い気持ちが芽生えたことだろう。
けれど「自分がこの世の中で一人ぼっちになってしまった」と絶望した彼女は姉の後を追うようにして終戦まで残り二ヶ月程を残して姉と同じチフスによってその命を絶たれることとなる・・・。
彼女は「チフスが原因で死んだ」のではない。彼女は「絶望によってその命を絶たれた」。
収容所という「ナチスの歪んだ人種感がこの地上に作り上げた地獄」は、気が強く勇敢で前向きなアンネの魂ですらも挫かせるような筆舌に尽くし難いような環境であったことが判る。
人の狂気が戦争によって拡大され、「これほどの悲惨」を許容させるのかと思うと背筋が寒くなる思いだ。
最後に慰めにもならないが、たった一つだけ叶った「アンネの願い」を記しておこう。
アンネは前述のように「お父さんのオットー」を大好きだった。
それは「たとえ自分が不幸になり死んでいったとしても、お父さんだけには生き延びて幸せになって欲しい」と願うほどの強い特別な感情であった。
戦後、隠れ家のメンバー八人の中で唯一の生存者が「その父のオットーだった」!
・・・これは単なる偶然だろうか?
アンネは劣悪な環境の中で夢も家族も希望も奪われて、絶望のうちに死んでいった・・・・。
が、アンネの「最も叶って欲しい願い」はある意味、実現したのだ!
そしてその父の手によって隠れ家での彼女の日記は世に広く公開されることとなる。
これが「運命(さだめ)」ならば、彼女が召された天国に「父の姿がないこと」を確認した後に、最後の最後で「心の底からの笑み」を浮かべることが出来たのだと心に強く信じたいのだ。
「お父さんは生き残った!」と。