1900年 (2枚組) [DVD]
1975年にベルナルド・ベルトルッチ監督が
演出した壮大な物語です。
1900年の同日に生まれた地主の
息子アルフレード(ロバート・デ・
ニーロ)と小作農の息子オルモ
(ジェラール・ド・パルデュー)。
幼馴染の二人は時に励まし合い、時に対立
しながら、70数年に渡って友情を確かめ
合います。
アルフレードと美女アーダ(ドミニク・
サンダ)の甘美な恋は詩的に歌いあげ
られます。
オルモと教師アニタ(ステファニア・
サンドレッリ)の恋は情熱的です。
四人の愛と友情のドラマを軸にして
イタリア20世紀を尋ねた映画です。
1975年の公開当時、イタリアやアメリカ
では厳しい評価を受けて、短縮版で短期間
上映されるという冷遇を受けてしまいま
した。
1982年、日本公開において、世界初と
なるオリジナル全長の尺数316分の上映が
なされて絶賛され、ベルトルッチ監督は
感嘆・感動していました。
1993年の日本リバイバルで、遂にオリジ
ナル英語版による316分の上映が行われ
ました。
撮影監督ヴィットリオ・ストラーロの
映像は光と影が鋭く、絵画のように
壮麗です。
ポー川周辺の自然の壮大さも圧巻です。
タイトルを「イタリア現代史を書いた」
としましたが、これはストラーロが
撮影において、物語を「描く」のでは
なくて「書いているのです」と語った
言葉に由来しています。
ストラーロが映した1シーン1カットに
「書かれた」映像の凄さがあります。
一点気がかりなことがあります。
気になっているのは、ストラーロ撮影
の映像美の濃密さを、DVD版が伝えて
くれているかどうかです。
以前発売されたビデオ版・日本語吹替
テレビ放映版は、画像の色彩が薄くて
残念だったので、今回発売される
DVDで映像美・画質がオリジナル通り収録
されていることも祈念しております。
エンニオ・モリコーネの音楽も壮大です。
彼の最高傑作だと確信しています。
イタリア語版が収録されていないのは
残念ですが、英語版DVD楽しみにしてい
ます。
オープニング。
絵画「第四身分」に描かれた
男性のアップ。
響くモリコーネの音楽。
思い出すたびに泣いてしまい
ます。
ここから始まる316分。
一秒たりとも退屈しないことを
確約致します。
是非、ご覧ください。
ベルトルッチ&ストラーロの
最強コンビが「書いた」イタ
リア史映画の不滅の傑作です。
暗殺の森 [DVD]
ベルナルド・ベルトルッチは、「ラストエンペラー」以後、オスカー監督として広く名声を受け、ハリウッド資本で映画を連発し、多くの映画ファンにその名を浸透させたと記憶しているが、ベルトルッチの真髄と凄みは、飽くまでもイタリア時代の諸作品でこそ窺えるものだと思っている。
今作の舞台は、30年代イタリア、ファシズムの道まっしぐらに国が突き進んでいた時代。これは、主人公は、幼少期に犯された男性を殺害し、以来体制順応な道を選ぶ事で普通の市民になれるとの強迫観念に駆られ、ファシストになろうとする男の物語。
映画は、主人公が、暗殺現場に秘密警察員と向かうシーンから、主人公の過去を辿る構成で進められる。
つまり、時系列を時折崩しながら、主人公の内面を掘り下げる人間ドラマと政治的サスペンス、それに第二次大戦前夜の暗黒と頽廃的ムードでの男女の愛欲の情念を交え、全編官能が煮えたぎる中で、この数奇な物語は展開するのだ。
ベルトルッチと盟友ヴィトリオ・ストラーロ、果たしてどれほどの映画ファンがこのふたりの顔ぶれに心ときめき、眩惑、陶酔された事だろう。
ストラーロは、今作を熱愛するフランシス・F・コッポラに請われ、「地獄の黙示録」や「ワン・フロム・ザ・ハート」の撮影監督を引き受け、また、ウォーレン・ベイティの「レッズ」や「ディック・トレイシー」でも光と影の魔術師ぶりを遺憾なく発揮させ、我々を唸らせたが、やっぱり、ベルドルッチとのコンビネーションこそ最高無比だと確信する。
イタリアでのまるで主人公の心の荒涼感をえぐり出したかの如き白を基調とした背景色と、パリでの一転自由と解放を象徴するような青を基調とした背景色。
時にフィクス、時に大胆に動くカメラから注がれる視点は鋭利かつ冷徹この上ないが、それでいて、頽廃にして官能的な空気が蔓延しているのだ。
構図とライティングがクールに決まり、長回しに細かなカット割りが効果的にインサートされる。
ワンショット毎に映像の力、美しさがみなぎっているが、同時に、心わななくようなエロティシズムに酔わされる。
そして今作は、ふたりの美しく素晴らしい女優を見つめ続ける映画でもある。
ドミニク・サンダとステファニア・サンドレッリ。当時サンダ19歳、サンドレッリ24歳。
ふたりが舞踏会で踊るダンスは、映画史に残る溜め息ものの美しさであったと思う。
サンダは、今作出演後、ベルトルッチの次作「ラスト・タンゴ・イン・パリ」に主演する予定だったと言う。残念ながら、それは果たせなかったが、もし実現していたら、その後のサンダの女優人生も変わっていたかも知れない。
今作には、有名な逸話が多いが、ふたつだけ紹介する。
劇中出てくる主人公が暗殺を命じられて近づく反ファシズムの大学教授の自宅の電話番号は、当時のJ.L.ゴダールの自宅のそれだったと言う。
ベルトルッチにとって、ゴダールは映画の父的存在で、これが初期のベルドルッチ映画のキーワードとなる父親殺しに繋がっていくとの見方がよくされている。
それと、何かで読んだんだけど、今作は初公開時はCICが配給し、「ミネソタ強盗団」との2本立てにてスプラッシュ上映されたらしいとの事。
何か、名画座でもブッキングさせないような2本立てだし、この傑作が僅か2週間の限定公開だったと言うのも、何とも先見の明がない話だと思う。
因みに、72年度に日本公開されていた外国映画は、「ゴッドファーザー」、「時計じかけのオレンジ」、「ダーティハリー」、「わらの犬」、「恋人たちの曲・悲愴」、「フレンチコネクション」、「恐怖のメロディ」、「脱出」、「早春」に「ラストショー」。偉大なフィルムメイカーたちのキラ星の如き傑作たちが並ぶ極めて歴史に残る豊饒な年だったと痛感する。
暗殺の森 Blu-ray
『暗殺の森』('70)原題「il Conformista(英題:The Conformist)」。
1930年代末、ファシスト政権が台頭するイタリア。体制に順応して“普通の人”として生きていこうとするマルチェロ(ジャン=ルイ・トランティニャン)は、知性も魅力もないプチブルのジュリア(ステファニア・サンドレッリ)と婚約し、友人のイタロを通してファシスト党への入党を望んでいた。マルチェロには、13歳の時にリーノ(ピエール・クレマンティ)という同性愛の青年に襲われそうになり、とっさに彼の銃を奪って撃ったという苦い過去があった。「殺人を犯した」という罪の意識がトラウマとなり、意志を持って行動できない男になったマルチェロは、ただ体制に順応し、無感情に生きる。
やがてマルチェロは、党から秘密任務を受ける。それはパリに亡命している彼の恩師で、反ファシズムの指導者、クアドリ教授(エンツォ・タラショ)の暗殺だった。新婚旅行を利用してパリに赴いたマルチェロは、クアドリ教授と再会。彼の妻で若く美しく、挑発的なアンナ(ドミニク・サンダ)に、はじめてマルチェロは自分の心が騒ぐのを感じる。自分の任務に怖れを抱くマルチェロ。しかし、暗殺実行の時は無情に迫っていた・・・。
原作は、イタリア現代文学を代表する作家(画家ではありません。解説文は間違い)アルベルト・モラヴィア。戦中はファシスト政権に執筆活動を禁じられ、戦後はネオ・リアリスモを代表する作家になった。原題「il Conformista」の意味は「順応主義者」。異端になることを恐れる故に、自らの意志を持たずに漫然と社会に適応するだけの主人公を指す。自らの人生まで捏造してしまった男の、空虚極まりない生き方を通し、ファシズムが台頭・蔓延していく背景にあるものは独裁者と権力だけではなく、「順応主義」という民衆の無責任な心理・行動も然り、という事を仮借なく暴き立てる作品である。
本作で有名な逸話のひとつに、マルチェロが暗殺を命じられる恩師の住所が、ゴダールの住所と同じ(電話番号が同じという説もあり)という話がある。「ヌーヴェル・ヴァーグの父(ゴダール)をイタリアの末弟(ベルトルッチ)が殺した」と監督自身が言うように、本作は若きベルトルッチが受けてきた様々な影響、そして時代への決別表明の作品なのである。「インテリの独り言」から「観客との対話」へ。それは、この後に作られた映画を観れば如実に判る。
本作は、ファシズムが台頭する社会の閉塞感を、一見豪華絢爛に視えるアール・デコの時代を硬質で冷たく、そして人物は無感情に描く事で表現している。とにかく、主演のトランティニャンはじめ、俳優たちの感情をほとんど露わにしない無機質な演技は、観客としても感情移入できるキャラクターがいなくて困ってしまう(笑)。特に『1900年』('76)と比べてみると、同じ女優の演じるキャラクターの何と違うことか!平凡でつまらない、マルチェロの妻ジュリアを演じたステファニア・サンドレッリ。メイクも、いかにもこの時代のドーラン厚塗りで目の周りは黒く縁取り、クスクス笑ってばかりのお行儀の悪さを除いては、まるで人形のようだ。しかし『1900年』では、農民たちを鼓舞してファシストを倒そうとする女教師を実に生き生きと演じている。同じく本作では、ファム・ファタールともいえる役割を演じ、中性的な存在でジュリアすら誘惑するかの如き役を演じたドミニク・サンダは、『1900年』では納屋でデ・ニーロと全裸体当たりのラブシーンを熱演、波乱の時代の中で翻弄され、苦悩する等身大の女性を演じている。
そう、『暗殺の森』は、どこまでも硬質で冷たい、シニシズムの映画なのである。そして、「父親殺し」を宣言する監督自身の陰鬱な心を投影するかのように、滅び逝くファシズムの甘美の最後の残滓が、異常なまでの輝きを放ちながら映像に凝結している作品でもあるのだ。
とにかく、計算され尽くされたとも言える映像美には付け入る隙がなく、息が詰まるほどの思いである。
『地獄に堕ちた勇者ども』を意識していたベルトルッチに、撮影監督のストラーロは「我々だけの映像を創り上げよう」と言ったという。しかし「前半は白黒映画のようだ」とストラーロ自らが述懐するように、明らかにドイツ表現主義、あるいはオースン・ウェルズの映画を意識したとおぼしきアヴァンギャルドな構図や照明設計が展開する。斜めに傾いだ構図まで登場し、さすがにそれはやりすぎなのではと苦笑したくなるカットまであるのだが、色彩を極度に押さえた画面設計は、ファシズムの冷徹な時代の空気を見事に表現している。
この映画のアートセンスは本当に注目に値するのだが、中でも息を呑むのが建築である。まるでこの映画のセットとして造られたとしか思えない威圧的なモダニズム建築の数々。登場人物たちの背後の壁や意匠や空間が、もうファシズムを無言の裡に語っているようなのだが、それもそのはず、近代のイタリア建築の歴史は、ファシズムと切っても切れない縁があるのである。
20世紀初頭から、「未来派」―「ノヴェチェント」―「イタリア合理主義建築」の流れを汲む近代イタリアの建築様式は、皆ファシズムのプロパガンダとして利用された芸術運動だった。ファシスト政権下では、労働組合に替わりファシストがコントロールする「協働組合」というシステムが敷かれ、イタリア建築家協会はファシスト建築家協会となった。つまり建築家でありたいならば、ファシスト党員になるしかなかったのである。激動する時代の波の中で革新を続けるスタイル=破壊的でアナーキーな「未来派」、それに対し伝統と新時代の精神の合一を図った「ノヴェチェント」、反アカデミズム・機能主義を標榜した「イタリア合理主義建築」=は、ファシズムの社会構造と共鳴し、何よりも雄弁にファシズムを象徴するものになってしまったのだ。故に、この時代に活躍した建築家たちは、戦後、イタリアでの評価が遅れる事になる。
こうした、イタリアのモダニズム建築を絶妙に取り込んだ、ベルトルッチ&ストラーロの「視覚的共犯関係」は必見。ヴェンティミリアの町で、マルチェロが薔薇の花束を手に、ラテン語が一面に刻まれた壁に沿って歩くシーン。父親と面会する精神病棟 ― だだっ広いのに、不安感を掻きたてるその空間感覚。特にこの映画前半は、他に類を見ない完成度の映像だと断言していい。
そして衣装。上流階級の黄昏を暗示しつつも、アール・デコの時代ならではのスタイリッシュで絢爛たるファッションはやはり目を見張らざるを得ない。映画が製作されたのは、'60年代の終わり。パリでは学生運動が巻き起こり、時代の主役もまたブルジョワから「怒れる若者たち」へと代わろうとしていた。こうした「リアルな時代」と「映画の中の時代」の変化がシンクロし、古き時代への決別そしてレクイエムへと本作は昇華していくのだ。
滅び逝くものの虚無感と美しさを共存させつつ、『暗殺の森』は時代の境界を漂流するシネマなのである。
最後に、気になるのが本ソフトが「完全版」かどうかである。というか完全版でなかったら噴飯物なのだが(尺からみると完全版のようだが、しっかりと表記してほしい)。
初公開時にカットされていた4分ほどのシーンを、96年にベルトルッチが復元。それは盲人たちが地下で行う、「花嫁がいない結婚パーティー」である。マルチェロのファシスト党入党が暗示されていると言われるこのシーンが抜けているバージョンではないことを祈りたい。
完全版は、ストラーロの監修で、色彩などを最良の状態に復元したバージョンでもあるのだから。
とにかく再発に拍手。そしてぜひ「完全版」の表記を乞う!