Fate/EXTRA、Fate/EXTRA CCCの情報や設定、イラストなどを詰め込んだ資料集です。当然ながら両作品のネタバレがあるのでプレイ中の人はクリア後に読む事をお奨めします
ゲーム中では不明だった各サーヴァントの宝具ランクや詳細等が書かれた『完全版ステータス』が載っているので、Fate好きにはこれだけでもたまらないかと
マスター・サーヴァントのプロフィールやラフ絵、没衣装なども載っており、なんとお蔵入りキャラのプロフィール・イラストまで網羅しているという充実ぶり。原作絵師・武内崇さんのイラストもちょこっと載ってます
用語集は約70ページにも及び、凄まじい量の設定解説を読むことができます。CCC初回サントラ付属の用語集に書かれていたものも全て載っているので、初回版を買い逃した人にも親切な作りですね
別冊のイラスト集はワダアルコさんが今までに書いたEXTRAの版権絵をまとめたものとなっています
個人的には大満足の内容でした。EXTRAシリーズがこれで終わりかは分かりませんが、本家作品に負けず劣らず魅力的なキャラばかりだったので何処かでまた出番があると嬉しいですね
私は普段観たい映画があっても映画館に足を運ぶことはせず、発売もしくはレンタル開始を気長に待ってから、自宅でまったりと観賞するのが好きでした。
なぜなら田舎暮らしで映画館まで1時間以上を要する上に、館内ではタバコが吸えない(当たり前ですが)車で観に行く以上酒も飲めない、座る席によってはトイレも(気を使って)我慢する必要があるからです。
それを避けるために苦労して自宅にシアタールームを作り、今ではオーディオが趣味なのか映画鑑賞が趣味なのか自分でもわからなくなる程の視聴環境を整えたと自分では思っています(笑)
そんな私がネタバレを恐れて公開初日に行きましたよ。
まどマギは私にとってそれほどの作品だったのかと自分でも驚きました。
内容については沢山レビューがありますので一気にとんで視聴後の感想ですが・・・魂を抜かれたような気持ちになりました。
他の方のレビューにもありますが、帰り道はどこか上の空で何とも言えない感覚。家についた後も、その後の数日もそれが続きました。
何故ああなったのか、確証のない憶測ばかりを何度も繰り返していました。近くに映画館があったなら何回か観直していたことでしょう。
その後ブルーレイの発売日が決まり、勿論即予約。一度しか観られなかった私は到着まで待ちきれません。待つしかありません。
そして待ちに待った発売日の前日に受け取りました!!予約してて良かった。
仕事が終わり早速視聴。一度目では後半の情報量に圧倒され、さらにはトイレ(小)を我慢していたこともあり見えなかった部分が見えてきました。
やはり素晴らしい作品です。ただし好き嫌いははっきりと分かれるでしょう。
今まで沢山の映画を見てきた人の脳内には、次第にその
データベースの中からお決まりのパターンというものがいくつか出来上がってきます。それに伴って大抵の映画なら先の展開が読めてしまうことや、そうでなくても既視感に囚われる事が増えてくるかと思います。
そのような「素晴らしい映画」はもう見飽きたという人間の頭を最後にぶっ叩いてくれる作品です。
今でも明確な答えは出ません。挙句にはソウルジェムに宿っていたのは本当に「愛」なのか?とか、彼女の理念や行動のすべてが「願い」の強制力によるものなのではないか?とかおかしな所にまで考えが及んでしまいます。
こういった観終わった後にもやもやさせられる映画は大好きです。
まあ二期であれ劇場版であれ続編の出る作品なので答えが出ないのは当然と言えば当然でしょうが、そのために無理やり捻じ曲げた結末が結果的に虚淵さんらしい作品になってしまったのは何とも皮肉な話ですね。
しかし”あのようになって”しまった以上、彼女が「本当の意味で救われる」結末がどうやっても想像できないのが辛いです。
永劫回帰にならないように願っています。
4/11追記
これから書く事は色々な方の考察等を参考に、自分の妄想も絡めた自分なりの解釈です。人によって色々な捉え方のできる作品ですので、勿論この妄想もその内の一つに過ぎず、答えはありません。そして非常に長いので読まない方がいいです。(じゃあ書くな)
ですが頭の中だけで考えていると「もやもや」感がいつまでも付き纏うので、一度文章に起こして自分の考えを整理する意味でもこの場を借りて書かせていただきます。
まずはじめに、魔法少女たちの願いとその結果についてです。
キュウべえは序盤、魔法少女になるという「代償」を支払うことによってどんな願いでも叶うという謳い文句で「そうせざるを得ない」少女たちの下に現れ、契約を持ちかけます。
それによって願いを叶えた少女たちは魔法少女となり、
魔女と戦う過酷な運命に身を委ねます。
しかし覚えているでしょうか?
物語の終盤、キュウべえはこう語ります。
「身に余る願いは必ず歪みを引き起こし、自身に返ってくる」と。
「身に余る願い」を叶えた魔法少女たちがその後どんな運命を辿ったのか、作中で語られていますよね。
つまりキュウべえは魔法少女に対して元から何も支払ってなどいないのです。
簡単な話をすればその少女の運命を歪め、奇跡という対価を前借りしているに過ぎず、当然支払いは契約した本人が行うことになります。
いずれ”
魔女”になるという運命を知らぬ間に背負わされることもそうですが・・・
マミさんは「助けて」と願い、その場は助かりましたが結局は若くして凄惨な最後を迎えました。
杏子は「父親の話にみんなが耳を傾けてくれるように」願いましたが、話を聞きにやってきた「みんな」は「願い」によって操られているだけの傀儡と化した一般人でした。
その結果家族は崩壊、天涯孤独の身になりました。
さやかは好きな人のために「現代の医学では治療不可能な怪我を治す」という「奇跡」を願いましたが、それによって助かった彼が好きになったのは別の人でした。
結果的にそれが原因で急速に呪いを溜め込み、
魔女になってしまいます。
まどかはその身に絡んだ膨大な因果により、魔法少女としての潜在能力が他とは一線を画していたが故にあの途方もない願いを叶えましたが、それによって支払うはめになったのは「自分自身の存在」です。
さて、それではほむらの「まどかを救う(要約すると)」という願いはどうなったのでしょうか?
あの時点で最大の脅威は「ワルプルギスの夜」であり、ほむらが契約に至った理由でもあります。
その脅威から「まどかを救う」という願い。これが全ての元凶、最も願ってはいけない部類のものです。
そしてそれこそが何度繰り返してもほむらが「ワルプルギスの夜」に勝てなかった理由でもあります。
何故なら倒してしまったら「まどかを救う」という“願い”が「叶わなくなる」。そう思いませんか?
その願いの代償としてほむらが支払ったものは?
「何度繰り返してもまどかを救えない」という結果に他なりません。
皮肉な話ですね。
要するにキュウべえはとんでもないクソヤローで、比類なき詐欺師だということです。
・・・と感じるのも「感情」のある人間だからこそで、とうのインキュベーターたちにはそもそも「感情」というものが存在しません。
だから願いの内に秘められた「本質」を汲み取ることが出来ず、結果だけを叶えることしかしないし、それに対して罪悪感を抱くこともありません。
しかし本人にとって最も皮肉な形になろうとも「願いを叶える」力に関しては本物です。その強制力からは一度願ってしまえば逃れようがありません。クーリングオフなどできないのです。
そしてその「ほむらの願い」を物語の最後に断ち切って見せたのが、他ならぬまどかであり、「円環の理」です。
「過去と未来、全ての
魔女を生まれる前に消し去りたい」
この願いは、人類とインキュベーターが出会ってからの全ての魔法少女たちの絶望を消し去り、宇宙の理を作り変える程のものでした。
テレビ版では、ここで綺麗に終わります。
ほむらは「まどかの望んだ世界(ほむらの為に)」を守ろうとします。
しかしこの時点でほむらの「願い」は叶わなくなってしまったのです。
「まどかを救う」という願いを叶える代償として魔法少女になったのに、これでは契約不履行です。
そうして迎えた劇場版「叛逆の物語」
結果的にほむらにとって千載一遇のチャンスが訪れました。
大元の原因はキュウべえの存在ですが、そこからまどかを「円環の理」にしてしまったのも、改変後の世界でキュウべえに以前のこと(
魔女が存在した世界)を教えたのもほむらです。その結果キュウべえにいらぬ知恵を与えてしまいました。
そこについては責められないでしょう。そもそも「そうなる」ことなど想像もしなかったでしょうからね。(と、ほむら好きが擁護しております)
そんなほむらが”落とし前”をつける最後のチャンスです。
で、あのような結末になった訳ですが、色々な意見があると思います。
何度も言いますがこれは妄想ですので、「こういう考えもあるんだな」程度に思ってください。
ほむらは「全ての魔法少女たちの希望」を毟り取りました。
しかしそれは「まどかがまどかであった」頃の記憶と存在だけであって「円環の理」の機能そのものを犯した訳ではありません。
それではなぜほむらにはそんなことができて、そこから更に世界を創り変える程の力が発揮できたのか、なぜソウルジェムがああなったのかについて考えてみましょう。
力についてはこういう解釈ができます。
ほむらがまどかを救うために何度も繰り返す時間によって、まどかを因果の糸でがんじがらめにしてしまったように、まどかがほむらを思っていた時間もそれに比例(完全にではないが)する訳です。要はまどかとほむらを中心にして因果の糸が絡んでいたという訳ですね。
次にソウルジェムがああなった理由ですね。
彼女はソウルジェムの中で
魔女になり、自らが結界の中に引き込んだ魔法少女によって殺されることで、円環の理に対するキュウべえの干渉を防ごうとします。
しかし「助けに来てくれた人たち(まどかも含む)」によって殻を壊されます。それは「本当のまどか」にほむらを会わせるために他なりませんが、そうしてしまうとキュウべえに「円環の理」を観測されてしまう?ので、まどかを救うという願いが叶いません。
この時、いや「本当のまどか」の願いを聞いたとき?いや最初からかもしれません。
不履行になっていた“願い”は「最後のチャンス」に再び力を発揮します。
その“不可思議な力”によって、ソウルジェムに溜まり臨界に達しようとしていた「呪い」は、「愛」を宿した「ダークオーブ」へと変化した。のでしょうか?
なぎさはその“中身”について劇中で「呪いよりもおぞましい色」と言っています。
ほむらはそれを「愛」と言いましたが、その中には執念や絶望、後悔、世界に対する、自分に対する憤り等、何やらようわからん混沌としたモノが大量に内包されていて、その全てがまどかのためだけに溜まったモノであるが故の「愛」なのでしょう。
もしかしたら殻の中で一度
魔女になったことで、ほむらは姿を保ったまま呪いを取り込み、
魔女よりも「もう一段階上」の存在にシフトしてしまったという方が正解かもしれません。
そうしてほむらは世界を創り変えました。
(まどかの創った世界をベースに、自分の周辺だけを”改ざん”したというほうが正しいかもしれません)
まどかは「ほむらの創り上げた世界」に、再び存在することになります。
まどかだけではありません。ほむらの記憶にあって救われなかった“みんな”がです。
憎まれ口をたたいてはいますが、このことからもほむらの本質を垣間見ることが出来ます。
では、これが叶うことによって支払う代償は、まどかの「友達」でいられなくなること?
そんな生易しいものではない筈です。
この「叛逆の物語」はテレビ版及び劇場版前編・後編と対を成すように構成されています。
まどかが自分を犠牲に世界の理を創り変え、全ての魔法少女たちの希望になったように、ほむらもまた自分を犠牲にしなければあのような途方もない願いは叶わない筈です。
自分の存在を悪魔とし「全ての魔法少女たちの敵」になるということがそれでしょうか?
そもそもあれは悪魔なのでしょうか?
一連の原因を作ったことへの責任を取る意味でも、悪魔という役割を演じている(またはその定めに身を任せた)ほむらなのか。
それとも“願い”の力に飲まれ、まどかを(結果的に)救うという役割を持っただけのほむらの形をした「何か」なのか。
あるいはそのどちらもかそれ以外か・・・
ED前の最後、ほむらがまどかにリボンを返すシーンで目に涙を浮かべていることから、一応ほむらではあるのだと思いますが、、、
そしてその際、ほむらはまどかに対して「この世界が尊いと思うか」尋ねます。そしてまどかはそれに「尊い」と答えます。
その後のほむらの言葉から察するに、”ほむら自身”の本心は「創られた世界」を容認していない(自分でやっておきながら)ということであり、それはほむらがこの物語の序盤にあった「自分の望んだ世界」に対して違和感を感じ、真相に迫ったことからも想像できます。
答えを聞いたほむらは、まどかもその気持ちは”同じ”だということに気付きました。いや、まどかがそう答えることなど最初からわかっていた筈です。
なぜならまどかは改変後の世界がほむらによって創られたものだと知りません。真相を知ればほむらと同じことをするでしょう。
それゆえの「いずれあなたとは敵になるかもしれない」なのだと感じました。
あのシーンは決別を意味していたのかもしれませんね。
話が逸れましたが続きです。そもそも「まどかを救う」という願いはまだ完全に叶った訳ではないのかもしれません。
キュウべえは今回の件で人類からエネルギーを回収することに危険性を感じ、手を引くことを決めたようでした。
ということはですよ?“有史以前”から存在する魔法少女やら
魔女やら魔獣やら全部ひっくるめた一連の「エネルギー回収のシステム」がなくなるということです。
逃げようとしたキュウべえは悪魔ほむらに捕まってしまいましたが(汗)
この時点では「魔獣」はまだ存在している為、その掃除をさせるためでしょう。
そして世界から魔獣という存在を一掃し、キュウべえを解放(追放?)します。
上記の「エネルギー回収のシステム」が無くなるならもう魔獣は生まれません。(それに伴って魔法少女もその力を失う?)
さあそうなると「円環の理」の必要性も無くなりますね。
まどかは本来の役割に戻る必要が無くなります。その時こそほむらの「まどかを救う」という願いが叶うとともに、代償を支払い終える時なのかもしれません。
(続編の脚本も虚淵さんが担当するならば、きっと考えうる最悪の形でほむらに代償を支払わせるでしょう。物語という世界において神とは書き手の事であります。しかし敢えて言おう、あなたこそが本当の悪魔であると!)
物語の最後、ぼろ雑巾のようになったキュウべえの目が映りますね。
あれではまるで、キュウべえ自身が“極めてまれな精神疾患”を患ってしまったかのようです。
“またしても”ほむらは、とんでもない間違いを犯してしまったのかもしれません。
はたして「終わらない始まり、本当の終わり」を迎えることが出来るのか?
(君の銀の庭いい曲ですねー)
以上妄想でした。長々とスペースをとりすみませんでしたm(__)m