1.ミイラ怪人の呪い
ハマーのミイラ怪人物3作目。
ハマー怪物役者の一人、エディ・パウエル演じるミイラ怪人が目覚めるシーンが特に怖い。
神経質な細身の美貌に不似合いな巨乳をもつマギー・キンバリー、英国版山村聡とでもいうべきジョン・フィリップスの利己的な俗物性、一番頼りになりそうなアンドレィ・モレル教授の意外な顛末もインパクト充分でした。
マイケル・リッパーが小心者のロングバロー役でハマー出演作屈指の好演を見せています。
ハマーの顔、ピーター・カッシングが冒頭シーンのナレーションでのみ参加。
家庭的雰囲気でハマーカラーに大いに貢献していた自前のブレイ・スタジオ最後の作品でもあります。
2.悪魔の花嫁
イギリスの諜報員〜黒魔術物の国民的作家だったデニス・ウィートリー(ホイートリー)作「黒魔団」の映画化企画を自身がハマーに持ち込み主演したクリストファー・リーお気に入りの作品。
1930年代のイギリスを舞台に正邪の
魔術師達の戦いを描いており、特撮や性急な導入部に弱みが有る物の、後の日本のオカルト作品への強い影響(「エコエコアザラク」と言う呪文が唱えられている!)を感じさせるウィートリーの作風を俳優の演技中心に撮ったテレンス・フィッシャー監督の手腕とドラマチックなジェームズ・バーナードのスコア、そして、堂々たる風格で、主人公の公爵を演じたリーが実に良く、終盤の魔法陣内の攻防もBOX内では本作のみ導入された5.1chの音声がスリルを盛り上げて居ます。
いつもテンポが良いフィッシャー監督としても端折り過ぎの導入部は、英国では誰もが知っている作家作品の映画化だからなのでしょうか。
単発で終わってしまったのが残念な作品。
3.恐怖の
雪男 未だハマーがホラーに本腰を入れる前の過渡期的作品です。
秘境探検物で、後にハマーの屋台骨を背負うカッシングと、アメリカの渋い俳優、フォレスト・タッカーを招いて主演させています。
監督ヴァル・ゲスト、脚本ナイジェル・ニ―ルと言ったBBCのSFドラマからハマーに関わった二人のコメンタリーは戦前から50年代半ばにかけての貴重な英国映画事情も含めて聴き所満載です。
50年代終盤としては直截な描写で有名なハマーが表題の
雪男をはっきり見せない技法を使用した珍しい作品です。
映像特典は解説、
スタッフ&キャスト紹介、フォト・
ギャラリー、予告編以外では、作品毎にTVで放映された名場面集「World of Hammer」が
1には「MUMMIES,WEREWOLVES & THE LIVING DEAD」
2には「HAMMER STARS:CHRISTOPHER LEE」
3には「HAMMER STARS:PETER CUSHING」
各々に収められて居ます。
収録作の知名度は高く有りませんが、粒揃いで見応えの有るBOXでした。
この本に関しては厳しいレビューを書いてる人もいる。
まあ、
雪男が出てくることを期待して読むと肩透かしを喰らうだろう。
スリル満点の命懸け冒険談を期待してても肩透かしを喰らうだろう。
わしゃどちらも期待してなかったので、満足だった。
しかし、捜索隊が撮影した足跡がなぜ
雪男のものだといえるのか、もうちょっと検証してほしかった。
(ヒマラヤに住む他の動物の足跡の写真と比較して、どれとも似てないとか…)
よって、星は1つ少ない4つにした。
興味深いのは、日本人登山家もけっこう
雪男を目撃しているということ。
フィリピン・ルバング島の残留日本兵小野田寛郎氏を発見した鈴木紀夫氏に至っては、
6回も
雪男探索でヒマラヤ遠征をした挙句、グルジャヒマール南東稜コーナボン谷源流部で雪崩により死亡している。
ところが、その誰もが決定的な写真撮影には成功していない。
ことごとく失敗していて、まるで得体の知れない超常的な力によって、
雪男の撮影が妨害されているようだ。
また、著者が現地の人にインタビューすると、
さんざ「
雪男なんていない」と否定されてしまうエピソードには、苦笑せずにはいられない。
まるで、日本のどこかの山奥にいまだに最強のニンジャ戦士が隠れ住んでいると信じている外国人みたいだw
著者自身は、
雪男探索隊に加わったにもかかわらず、その存在に懐疑的なのもおもしろい。
よって、本書は非常に公正な立場から書かれてある。
著者によると、人間には、
雪男を見る人と見ない人の2種類がいるそうだ。
確かにそうだろう。わしも
雪男を見ることのできない人間に分類される。
科学の世界では、解けない問題に夢中になり、一生を「棒に振る」ということはよくあることだし、
「見てはいけないもの」を見てしまったがために、それに取り憑かれてしまうということは、誰にでも起こりうることだ。
「常温核融合が起こっているというデータが出てしまった」
「雲を見てると地震が予知できるような気になってしまった」
「ユリ・ゲラーのしょぼい
手品を見て、超能力は実在すると確信してしまった」
「夜空に光る謎の飛行物体を見て、宇宙人は地球に来ていると確信してしまった」
「探査機から送られてくる月や
火星の写真には、宇宙人の建造物が写っているような気がする」
「9.11アメリカ同時多発テロは米国政府による自作自演の大陰謀であることに気づいてしまった」
「東日本大震災は人工地震兵器による攻撃だったことに気づいてしまった」
「世界はイルミナティに支配されていることに気づいてしまった」
などなど…
度を越すとトンデモになってしまうが、答えのない問いに夢中になることは「人生を棒に振る」ことなのだろうか?
叶えられない夢はすべてくだらないことなのだろうか?
人の生き方として考えると、果たして、どちらが幸せなのだろう?
雪男がいると信じてヒマラヤまで行ってしまう生き方と、
そんなものはいないと決め込んで、部屋に籠もって惰眠を貪っている人生と?
夢が叶えられなくても、その過程で本人が幸せならそれでいいような気がしてきた。
少なくとも、わしにとっては「ヒマラヤに
雪男を探しに行く」というのは許容範囲だ。
わしも、機会があれば、ヒマラヤに行ってみたいと思うもの。
しかし、叶えられなかった夢は夢にしか過ぎないというのも事実である。
夢からはいつか醒めなくちゃいけない。
燐の歌は意外と子供っぽい(子供だけど)。
明るく前向きな歌詞が何とも言えない。
「燐らしいなぁ」っと思った。
ただもう少しテンポを遅めても良いと思う。
雪男の歌は落ち着いていて大人っぽかった。
大人しいラップで良かった。
DJもあって、良い。
キャラソンが奥村兄弟だけなのは少し残念ですね。
次は機外が在るか判りませんが他のキャラも出して欲しいと思います。
著者はノンフィクション文学の世界に忽然と登場した超新星だ。
前作『空白の5マイル』、最新作『アグルーカの行方』に挟まれた第2作。わたしは、著者の作品の中でこの作品がもっとも好きだ。
他の2作は、ともに著者自身で計画の骨格を作り、明確な目的意識を持って旅に臨んでいるが、この作品は、そもそもの計画からして著者が立てたのではない。著者は人が立てた計画に、ひょんな縁から参加することになっていくのだ。おまけに
雪男の捜索である。ヒマラヤの
雪男は、学術的なアプローチもされてはいるが、本書で著者も語っているように
ネッシーやUFOにも通じる怪しさを持った存在だ。この捜索隊に接近していくとき、著者は躊躇する。これが著者が目指す探検になるのかどうか自信が持てないからだ。それでも著者は参加する。そして、結末を述べてしまうのは申し訳ないが、捜索隊は
雪男には出会えなかった。
ここで物語は終わらない。著者は、その後にこれまで
雪男に魅せられてきた人々を追跡する。中にはその過程で遭難し、命を落としてしまった人もいる。著者は遺族にも会っていき、その人物像をつかもうとする。そこまで著者を走らせたのは、
雪男という際物的な存在になぜ惹かれていったのかを知りたいためだ。そうして、
雪男にのめり込だ人々にある共通の体験があることを発見する。それは目撃だ。それぞれの人は、それぞれに目撃した。それはおうおうにして、それぞれの人物が待ち構えいて
雪男に出会ったのではない。本当に偶然に“らしきもの”を目撃してしまったのだ。
こうした目撃者を執拗に追ったのは、著者自身の疑問からのように思った。その疑問は、
雪男が実在するか否かというところではないところに興味をかき立てられた。著者は、今後も
雪男を捜索しようなどという気持ちはまったく起こさない。そのことについては一歩も二歩も引いている。著者にとっての疑問は、「探検とは何か」ではないかと思った。未知を解き明かすために命を落とすかもしれないリスクを超えて冒険的な行為を行なう。これが探検だ。しかし、その未知が
雪男のようにオカルト的な怪しさの中にあるものだったらどうだろう。もしかすると世紀の大発見になるかもしれない。もしかする捜索行為はとんでもなく馬鹿げたものとわらわれるかもしれない。もしかすると、こうしたスレスレの位置でしか現代の探検は成立しないのかもしれない。そんな疑問を終始著者は持ち、その世界に身を投じるか否かに心を揺らす。取材されている人物たちも同じように心を揺らせている。その揺れこそが普遍性を持つ本書の本質だと思う。本書は、探検記というより探検を素材にした、人間性を問う文学なのだと思う。
人が描く夢だとか、人生の目標といったものは、
雪男のように怪しくて頼りないことがままある。それでも夢や目標が描けない人生より怪しい夢を持ち続ける人生のほうがよい、と思う。本書が問いかけるのは、さらにその先。願っても願っても、実現のために緻密に計画し営々と努力をしても自力では到達できないことがある、ということだ。非常にわかりにくい
タイトルだが、わたしは、「
雪男はこちらから会いにいってもあえない『
雪男は向こうからやって来た』、やって来るものなのだ」と解釈した。自力ということとともに、この世界には他力という別の力があり、その力学から人は逃れることができない。ということを教えられた。
著者はデビュー以来、ノンフィクション作家と探検家を肩書き併記している。わたしは探検家の看板はおろした方がよいのではないかと思う。決して著者の行為や目標を批判するのではない。探検の世界を愛する本好きの老婆心と思っていただきたい。探検家という肩書きは著者を苦しめてしまいそうに思う。デビュー作『空白の5マイル』は、まさに地図上の空白地帯を踏査する探検の王道として成立した。しかし3作目の『アグルーカの行方』は探検史に触発された冒険記として成立している。探検記では決してない。それほど探検を現代に成立させるのは難しいのだ。それを承知して敢えて探検家を表明しているのだろうし、今はまだ極限まで自然環境の厳しい地に行きたいという根源的な欲求が先に立っているのかもしれないが、これだけの筆力を持つ著者には、探検家という足かせをはずして、もっと自由に書いてほしい。