梶は中国人捕虜の死刑に抗議して徴兵免除の権利を失い、入営する。待ち受けていたのは旧軍にはびこっていた私的制裁の嵐と不条理の世界であった。しかし彼は訓練や私刑にも良く耐え、彼の持っていた天分と頑健な肉体が彼を模範的な兵士へと成長させる。そして彼は昇進を遂げ、新兵の教育を任される。しかし彼は古年兵のように振舞わず、生き残る知恵を新兵たちに教える。その中で、新兵たちの信頼を勝ち取っていく。
そして最後に私刑を繰り返してきた古参兵たちに叛旗を翻す。あまりに理不尽な行いをしてきた古参兵は梶の率いる新兵たちの銃口を突きつけられ、手出しができない状況へと追い込まれる。この場面は圧巻である。戦うための組織が内部で私刑等が恒常的に行われいたことへの梶の復讐は軍隊において合法的に行われたのは驚きである。最後の行動は軍法会議ものだが、実力が悪習に打克つ瞬間でもあった。でもこのようなことは例外に違いない。
軍隊内の生活の描写が巧みになされているのには非常に感心した。
内容的に一定の階級史観・帝国主義史観の影響を受けていたことは否定できないかも知れないが、山本薩夫監督・山田信夫脚本(第二部より武田敦との共同脚本)になる本三部作は、
ロシア的な長編小説のそれを想起させるその雄大なスケールと骨太なヒューマニズムで観る者をひたすら圧倒する。重要なのは、徒な先入観を排し、まずは名優たちの溢れる熱情と抑制された名演技の織りなすタペストリーに見入りそして感じることではなかろうか。
1970年(昭和45年)公開の本作だが、第二部そして第三部と併せ、評者の青少年時代には毎年のようにテレビのゴールデン・アワーや深夜帯に放映されていたものである。(時折瞬時に出てくるヌード・シーンに目を凝らした記憶も懐かしい。)DVD化はされているものの、それは逆に観客が一部のみに限定されてしまうということでもある。日本人の共通教養からこのように重厚な映画作品が消えてしまっていいものか、危惧とともに疑問を覚える。繰り言ではあるが、このような作品を観て育った経験の有無は、ある意味何事にも変え得ないのではなかろうか。
「・・・寒くて、すまないけどね・・・」と、三千子の薄い肌着に手をかけて、梶は哀願するように云った。「あすこに、あの窓のところに、立ってくれないか」
私の心に強烈に刻み込まれている、五味川純平の『人間の條件』(三一新書)第三部の一節。「ためらいはしなかった。起き直ると、一刻も惜しむかのように全裸になった。張りきった乳房が大胆に揺れたのは、男の切ない悲願に応えたのだ。・・・梶は、眺め、見つめ、いざり寄って、抱きしめた。これがこうする最後かもしれない。女には云わない」と続く。正義感のために軍隊内で孤立し、苦渋する梶二等兵を遥々と国境近くまで訪ねてきた妻・三千子との、何とも切ない久しぶりの再会。言われなくとも、妻は、「この人は、死ぬのではないか。この人は、もう、覚悟しているのではないか」と感じているのだ。
原作に忠実に製作されたDVD-BOX『人間の條件』(小林正樹監督、
仲代達矢・新珠三千代出演、松竹ホームビデオ)は、圧倒的な迫力で、戦争の中で人間はどう生きるべきかを問いかけてくる。
戦地から復員間もない五味川純平は、この作品を一気呵成に書き上げるやその数千枚の原稿を出版社に持ち込み、編集者はそれに魅入られたかのように一晩で読了したという。この小説の密度や面白さを知れば、このことは少しも不思議ではないだろう。しかし、この小説の
タイトルを理解するためには少し説明が必要である。
戦争は言うまでもなく、国家と国家との、兵士と兵士との争いである。一方が勝てば一方は占領され(滅亡し)、一方が勝てば一方は捕虜になるか、あるいは殺される。『人間の条件』はこの当たり前の事実を、愛を描くことによって再確認し、戦争にNO!を突きつけている。中国人捕虜に人間的に接したために最前線に送られた梶は、銃弾飛び交う戦場でも、上官の不当ないじめの横行する自軍の兵舎でも、ヒューマニズムを押し通そうとする。しかし、その梶は常にヒューマニズムと愛との矛盾に悩む男であった。自分に銃口を向ける敵兵士を殺さなかったら自分の最愛の美千子を悲しませることになる。しかし、この敵兵士にも愛する妻がいるのではないだろうか、という悩みである。愛を貫徹するためには殺人を犯さねばならない。愛に殉ずるためには人間性をかなぐり捨てて、人を殺さねばならないという事実は重い。おそらく誰にも正しい答えが出せない難問であろう。靖国や無差別テロの時代にこそ梶の悩みを我々のものとして考えるべきである。しかし、とりあえず、一面雪に覆い尽くされた冬の満州に、美千子の居場所まで一直線に線を引き、疲労困憊の身体でそれを踏破しようとする梶の物語を読んでほしい。現代人が忘れた戦争と愛の物語を。