ユアン・マクレガーが、若い!皺がない!!きれい!!!
そしていっぱい歌います。ついでにスーザン・リンチも歌います。
文字通り身も心も無防備にさらけだす演技は、
ユアン・マクレガーもスーザン・リンチもさすがの演技力。
なのでこの2人のファンならば手にとっても良いと思います。
しかし、それ以外の人には覚悟がいる作品となっています。
おさえておきたいポイントは、
ジェイムズ・ジョイス(
ユアン・マクレガー)は20世紀の偉大なる作家、にこれからなる人物。
つまり天才であること。
ジェイムズはノーラからかなり影響を受けて作品を書いていたということです。
これを前提にして物語はノーラの視点よりに、
いかにジェイムズが駄目な男(笑)で、
いかにノーラが面倒臭い女(笑)で、
なのにどれほどかこの二人はお互いを愛していたか、
むき出しの感情をぶつけあい傷つけあうような激しい愛情表現
(それは時に性的であり時にそのままの意味で傷つけあう)
を繰り返し。繰り返し。繰り返す映画です。
そんな恋愛経験のある方や、
子供を持った経験のある方や、どつきあう夫婦生活を送っている方は
共感できるかもしれません。
男性がこの映画をみてどう感じるかはちょっと私にはわかりません。
あと序盤から中盤のテンポがちょっといただけないかもしれないので、
これは人によって、
当たりはずれの激しい作品だと思います。
そして多分大当たりにはならない作品だと思います。
そのご覚悟でどうぞ。
脱獄囚ヒュウ・ローハンは、生き別れになった妻マーセデスが結婚していることを知る。マーセデスはヒュウが戦時中に死亡したと思っていたのだ。逃亡中のヒュウがマーセデスを訪ねたとき、現在の夫アルバート・ターナーとの間に悶着が発生し、ヒュウはアルバートを射殺してしまう。ヒュウへの愛を失っていなかったマーセデスは、ヒュウとの逃避行を決意する。 ・・・
ストーリーは、ヒュウとマーセデス、そして彼らを追跡する
ニューヨークの刑事(作中では”ぼく”)の行動を軸として展開する。章毎に、追うもの=刑事と、追われるも=ヒュウとマーセデスの視点がスイッチする構成。沈着冷静に逃亡の計画を主導するマーセデスと、除々に精神状態が不安定となるヒュウを三人称で、彼らの行動を推理し、追跡を続ける刑事を一人称で語っていく。
最初、ちょっと違和感を感じたのだけれど、これが実に練りに練っていることに気づく。ストーリーが進むにしたがって、重荷になっていくヒュウと、それでも愛をつらぬき、有能さを発揮していくマーセデス。淡々と語られるほどに、二人の切迫感が強い印象を残すことになる。
捜査の過程で、ヒュウにシンパシーを感じ、二人の関係性を洞察する刑事。読者はマーセデスの繰りだす打ち手を知っているだけに、刑事がどのようにそれを看破していくか興味をそそられていく。
刑事と、刑事の存在を心の中で感じつづけていたヒュウが交差するとき、クライマックスがおとずれる。
決着のつけ方は、これ以外ないはないと思うのだが、この作品の味わい深さを高めているのは、なんといっても最後の2行。ここにきて、作品が意図するところ、つまり、ヒュウがなぜ赤毛の男でならなければいけないのかわかる。刑事の心情や、行動を振り返るにつけ、余韻にひたりながら本書を閉じることになるだろう。
人間は、常に忘れてしまう生き物だ。感謝すべき事も、ありがたい思いやりも、ささやかな善意も、愛される理由も、日常という止めることのできない時間の大きな歯車の中で少しづつぼやけ、ときめきや驚きを過去に残し、あたりまえの事実として積み重ねられてゆく。そしてそれをことさら気にかけることもなく日々を過ごしてゆく。人間とはそういうものだ。どんなに素晴らしいことでも、感謝すべきできごとでもそれが続けば、感動は薄れあたりまえの事として処理してしまう。
ぼくは本書を読んでそういうことを考えた。それが正しいことなのかどうかはわからない。でも、そういうことなんだと考えた。そしてわかっていながらも適当にスルーしていた事や、恒常化した家族とのやりとり等をあらためて考えなおす機会を得た。本書を読んで、そういう事を考えた。それが正しいことなのかどうかはわからない。でも、ぼくはそう感じたのだ。日常は甘美な惰性だ。それに甘んじてはいけない。普段なら気にもしないそんな高尚な気持ちにさえなった。もっといろんな事に心をひらいて、感謝をしていかなきゃいけないなとも思った。
ああ、あたりまえってなんて卑しくて無神経な言葉なんだろうね。