穢土荘厳〈上〉 (文春文庫)
二十歳の頃何気なく本屋で見つけて買いましたが、とても二十歳の若造の読みこなすような作品ではなく、すぐに読まずに手放してしまったのですが二十年近くたった一昨年もう一度挑戦してみました。とにかく深いんですよ内容が!!憎悪や妬みとか、絶ちがたい異性への思慕とか人間の心の奥にある深層心理を鋭くえぐるような文章での描写に感嘆しました。長屋王の変、安積親王の謎の死、聖武天皇の彷徨、そして大仏建立と立て続けにおこる歴史的事件の解釈は、あくまでも作者の想像にすぎないはずが、鋭く丁寧な心理描写のおかげで無理がなく説得力があります。飛鳥、奈良時代の歴史に興味を持ってるかたにお薦めの作品ですよ。
孤愁の岸(上) (講談社文庫)
本書は、江戸時代に幕府より、木曽川、長良川、揖斐川の改修工事を命じられた薩摩藩士の苦悩を描いた小説です。もちろんこれは史実にも明確に残っているノンフィクションでもあり、現在でもこの一帯には薩摩藩士を祀る神社があるくらい、地元の人のこころに残る大事業でもあったようです。
江戸時代薩摩藩は外様の雄として、幕府より恐れられその力を削ぐために様々な圧力を加えようとします。そのひとつがこのような公共工事のスポンサーになることを命じる事だったわけですが、実際には薩摩藩の財政は破綻寸前で、その状態でこのような命令を受ければ、藩は潰れるしかないと言うところまで追い込まれていたわけです。
しかし、断ることも出来ず、幕府に弓を引くことも出来ず、薩摩藩首脳は苦渋の決断をするに至るのですが、本書ではそのあたりのこころの揺れ動きがとても丁寧に描かれており、抵抗無く感情移入することができます。
司馬遼太郎の歴史小説とはちょっと違う人物の描き方を堪能出来ると思います。
江戸時代薩摩藩は外様の雄として、幕府より恐れられその力を削ぐために様々な圧力を加えようとします。そのひとつがこのような公共工事のスポンサーになることを命じる事だったわけですが、実際には薩摩藩の財政は破綻寸前で、その状態でこのような命令を受ければ、藩は潰れるしかないと言うところまで追い込まれていたわけです。
しかし、断ることも出来ず、幕府に弓を引くことも出来ず、薩摩藩首脳は苦渋の決断をするに至るのですが、本書ではそのあたりのこころの揺れ動きがとても丁寧に描かれており、抵抗無く感情移入することができます。
司馬遼太郎の歴史小説とはちょっと違う人物の描き方を堪能出来ると思います。
華の碑文―世阿弥元清 (中公文庫)
能の大成者・世阿弥元清の生き様を、その弟である観世四郎元仲の視点を中心に描いた作品。
世阿弥主体の作品だと、どうしても世阿弥作の能をベースに内面へ深く突っ込みたくなるのは必定で、そこへ偏るともはや世阿弥ではなく作者の意思が露骨過ぎて、場合によっては食傷気味に感じたりもするのだが……
その点、本作は純粋無垢に優れた兄へ傾倒せず、常に屈折した愛情で見つめ続ける元仲によって、世阿弥の人物像、周辺環境ともある程度客観的な解釈と判断で進む分、読み手も冷静に作品空間を楽しめる。
元仲主体であるから、当然彼の生き方も見て取る事が出来、かといって元仲の主観ばかりが反映されているわけでもないので、時には世阿弥の主観でその他の人物像が滔々と語られたりもする、この視点のバランスがいい。
実際元仲には共感できる部分が多々ある。
芸能民の処世術として、幼い頃から耐え難い現実を美しい諦観で受け入れているどこか表面的な世阿弥に対し、元仲は素直に抗う人間らしい内面性を持っている。と同時に、抗いきれない事実に対しての怒り、憎しみ、妬み、あらゆる欲望を満たす術なく、持て余し、泣き崩れる弱さも見せる。
そんな元仲は、作中誰よりも兄・世阿弥を愛し、誰はばかる事ない批判者だ。
副題に「世阿弥元清」としながらも世阿弥の能楽師としての姿に比重を置かず、元仲の目線をうまく広げて周辺人物へも多くの筆が割かれているため、後南朝ネタがしっかりクローズアップされていた事に感心した。
数少ない南北朝モノでその多くを占める世阿弥モノの中に、楠正儀は登場しても、その子まではせいぜい名前くらいしか出てこない。が、楠正勝をはじめ、正秀、正元ら楠三兄弟がちゃんと喋って、作品空間で生きている。歴史学的に観世家と楠家との血縁には懐疑的な意見もあるが、小説のネタとしてこれほど美味しい設定はないだろう。ここを突っ込まんでどうする!と、自分的には南北朝の片隅で声を大にして愛を叫びたいところなので(笑)、素直に嬉しい展開だった。
さらに悦ばしい事に、世阿弥の子・観世十郎元雅の人となり、生涯まで余すところなく描かれている。
しかも足利義嗣の「お気に入り」という設定で、南朝方にもがっつり加担している!
大和越智氏との浅からぬ関わりは研究によって示されているのに、創作の世界ではイマイチそれが活かされていなかったところ、これはポイント高い!
以上、世阿弥の能に殊更小説的な装飾や解釈をほどこすこともなく、並行して田楽や曲舞の文化的な流れも踏まえながら、逐一政治的背景を考慮し、そこに関わった人物の動向へと深く斬り込み、能という芸術の本質を貪欲に追究する姿勢が、真摯に伝わってきた。
世阿弥主体の作品だと、どうしても世阿弥作の能をベースに内面へ深く突っ込みたくなるのは必定で、そこへ偏るともはや世阿弥ではなく作者の意思が露骨過ぎて、場合によっては食傷気味に感じたりもするのだが……
その点、本作は純粋無垢に優れた兄へ傾倒せず、常に屈折した愛情で見つめ続ける元仲によって、世阿弥の人物像、周辺環境ともある程度客観的な解釈と判断で進む分、読み手も冷静に作品空間を楽しめる。
元仲主体であるから、当然彼の生き方も見て取る事が出来、かといって元仲の主観ばかりが反映されているわけでもないので、時には世阿弥の主観でその他の人物像が滔々と語られたりもする、この視点のバランスがいい。
実際元仲には共感できる部分が多々ある。
芸能民の処世術として、幼い頃から耐え難い現実を美しい諦観で受け入れているどこか表面的な世阿弥に対し、元仲は素直に抗う人間らしい内面性を持っている。と同時に、抗いきれない事実に対しての怒り、憎しみ、妬み、あらゆる欲望を満たす術なく、持て余し、泣き崩れる弱さも見せる。
そんな元仲は、作中誰よりも兄・世阿弥を愛し、誰はばかる事ない批判者だ。
副題に「世阿弥元清」としながらも世阿弥の能楽師としての姿に比重を置かず、元仲の目線をうまく広げて周辺人物へも多くの筆が割かれているため、後南朝ネタがしっかりクローズアップされていた事に感心した。
数少ない南北朝モノでその多くを占める世阿弥モノの中に、楠正儀は登場しても、その子まではせいぜい名前くらいしか出てこない。が、楠正勝をはじめ、正秀、正元ら楠三兄弟がちゃんと喋って、作品空間で生きている。歴史学的に観世家と楠家との血縁には懐疑的な意見もあるが、小説のネタとしてこれほど美味しい設定はないだろう。ここを突っ込まんでどうする!と、自分的には南北朝の片隅で声を大にして愛を叫びたいところなので(笑)、素直に嬉しい展開だった。
さらに悦ばしい事に、世阿弥の子・観世十郎元雅の人となり、生涯まで余すところなく描かれている。
しかも足利義嗣の「お気に入り」という設定で、南朝方にもがっつり加担している!
大和越智氏との浅からぬ関わりは研究によって示されているのに、創作の世界ではイマイチそれが活かされていなかったところ、これはポイント高い!
以上、世阿弥の能に殊更小説的な装飾や解釈をほどこすこともなく、並行して田楽や曲舞の文化的な流れも踏まえながら、逐一政治的背景を考慮し、そこに関わった人物の動向へと深く斬り込み、能という芸術の本質を貪欲に追究する姿勢が、真摯に伝わってきた。