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雪の練習生 (新潮文庫)
なぜ本書は<ホッキョクグマ>3代の自伝なのか? 多和田葉子氏のモチーフを探るには、本書の第1話「祖母の退化論」に名前が登場するカフカの「あるアカデミーへの報告」(p67)がヒントになるはずだ。このカフカの短篇は、檻の中に捕われの身の<猿>が<人間の言葉>を獲得し、自由な人間として生きるという筋書きで、作者の異邦人的な違和感を<猿>の物語として描いたものだと解釈することができる。だが、ドイツ在住の作家・多和田氏の場合は、マイノリティな日本人の孤立感・違和感を素朴に描くことを潔しとせず、代わりに、ベルリン動物園で人気を博した実在の<ホッキョクグマ>・クヌート3代の<身体感覚>として描写しようとしたのだと思う。<身体感覚>であれば、日本人にもドイツ人にも通用する国際語といえるからだ。その結果、本書では、普通なら避けたくなるような身体用語・身体表現が愛用されている。

「お尻を天に向けて、お腹を中側に包み込んで、三日月形になった。まだ小さかったので、四つん這いになって肛門を天に向かって無防備に突き出していても、襲われる危険なんて感じなかった。それどころか、宇宙が全部、自分の肛門の中に吸い込まれていくような気がした。」(p9)

本書は、こんなふうな<ホッキョクグマ>の<身体感覚>で始まるが、「私も小さい頃に経験したことがある!」とか、「新鮮な表現だ!」とか感じられる人はこの作品に惹き込まれるはずだが、「品がないし、共感できない」とか、「こんな感覚になんの意味があるの?」とか思う人にはつまらない作品だと感じられるだろう。もちろん、私は前者で、熊の赤ちゃんが何度もでんぐり返りをしている姿が連想されて、愉快だった。第2話の「死の接吻」は、アクロバティックな作品で、解説の佐々木敦氏も指摘されているが、語り手の<わたし>が、最初はウルズラという猛獣使いの人間の女性だったのに、最後でトスカというホッキョクグマに入れ替わっている。まるでだまし絵のような作品だ。その<わたし>が入れ替わる転回点となるのが、「仕方なく靴を脱いで、ついでに下着も脱いだ。すると、腿にもお腹にもびっしりと白い毛が生えていた。」(p160)というウルズラの身体が変化する場面だが、実は、文体にも仕掛けがあって、途中から主人公の人称が1人称と3人称とで頻繁に入れ替えてあり、<わたし>というのがだれの内面描写なのかがわからなくなっていく。さらに、本書の文体のマジックは、何気ない一節にもそっと忍び込まされている。

A;「わたしとウルズラはパンコフにもマンフレッドにも内緒で筋書きにはないシーンを一つだけ最後に見せることにしていた。そしてそれを何度も二人だけで夢の中で練習した。ただ、わたしはその夢を見ているのが自分だけなのか、それともウルズラも同じ夢を見ているのか、確信が持てないので不安だった。もしもその夢がわたしだけの見ていた夢だったらどうしよう。」(p198)
B;「風が吹くと、園長のにおいがした。わたしは木につかまって立ち上がって片手を振った。園長が手を振り返した。」(p308)

Aの引用文は、「わたしとウルズラは…」という主語で始まるのに、それが2人の現実だったのか、<わたし>の夢にすぎなかったのか、読者にも真相がわからなくなる。このセンテンスは、せいぜい、「わたしは、ウルズラとともに…」と書くべきところだが、「わたしとウルズラは…」とあるため、読者は、いったん2人の事実だと思い込まされ、その後、夢の中の出来事だったような錯覚に巻き込まれていく。Bの引用文では、初め「園長」自身は姿を見せず、「におい」だけの存在だったのに、次の瞬間には「園長」が登場している。いずれも多和田氏のさりげない文体マジックだ。ほかにも、ストーリーが少しも停滞感がなく展開していく点で、3代の<ホッキョクグマ>の世界を構築する作者の並々ならぬ力量が感じられた。主人公たちは内省的だが、陽性のキャラクターとして描かれ、困難な運命にも自力で立ち向かう。これらの特徴は本書の素晴らしい美質で、私は感心するところが多かった。

最後に、不満をいくつか。まず1つ目は、カフカの短篇の不条理な世界とは違い、本書の主人公の困難さが微温的なことだ。主人公の<ホッキョクグマ>は、人間世界で厚遇されており、カフカの<猿>のように追い詰められ、<人間の言葉>を発せざるを得なかったような必然性が感じられない。主人公の<ホッキョクグマ>が、なぜ<人間の言葉>を話し、自伝も書けるのかが、物語の最後まで説明されないままだ。2つ目は、<身体感覚>の描写が本書の特徴となっているわりに、おとなの性愛の<身体感覚>が描写されておらず、やや物足りないことだ。3つ目は、作中で「政治的なこと」は書かないとされているが(p44-p45)、主人公の<ホッキョクグマ>が、<あらかじめ存在するもの>として、疑問なく、国家を受け入れていることだ。本来、動物には国家は存在しえないはずだが、あえて、3代の<ホッキョクグマ>が東西冷戦に翻弄される姿を描くのであれば、独特な国家のイメージが描写されてしかるべきだろう。といっても、これらの不満は、本書の積極果敢なプロットや文体への冒険に感心した後の、作者への期待を込めた不満と思っていただきたい。

犬婿入り (講談社文庫)
 「違いますよ日本人ですよ、と道子は仕方なく答えた。ああトヨタか、と言って最初の男が艶かしく笑った。道子はからだの向きをもとにもどして歩き始めた。わたしはトヨタなんかじゃない、と思ったとたん自分のからだが小さな自動車になってしまったような気がした」

 ペルソナのほうの一文だが、ドイツで古典文学の研究をする女の文化的な葛藤、というのは安易かもしれないが、そのような内容。
 「国際化」の時代の90年代の雰囲気が興味深い。何が言いたいかというと、こういった作品が受容されることを期待して作家が海外生活の断面を描く、というのが今とは違うな、ということだ。まだまだ異文化の探求が知的と見なされたというか、日本社会が外向きだったということか。

 今は、若い世代がなのか社会全体がなのか分からないが、外国、異文化への興味というのが、薄れている感じがする。もちろん旅行好きな人は、旅行をするし、「若者」の留学も実は横ばいくらいでそんなに減っていない。海外渡航自体はそんなに減っていないわけだ。
 逆に、航空料金も安くなって、実物を見る機会が増えたがゆえに、こういった海外生活文学が陳腐化してきた、ということかもしれない。

*****

婿」についても、民俗学的な学問がまだまだ元気だった時代という感じが懐かしい。といっても、そんなにそのころの時代を知っているわけではないが。

ルボー・サウンドコレクション ドラマCD 王子様のお勉強
 このCDは、オムニバスでショートストーリーが3つはいています。
どの話もとてもよかったです。特に2話目の緑川光さんと阪口大輔さんの息がぴったりで、すごかったです。
 最後の方にカップリングトークがあって、結構長いので、楽しめると思います。

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