中原昌也は映画を通じて人間を考察する。逆に人間考察のために映画を観ていると言った方が良いかもしれない。観る映画がどのようなものであっても人間考察という目的を充足させる障害にはならない。
この本で取り上げられている映画のほとんどは多くの人々に評価されてはいないが、そこからインスパイアされる著者の考察はその切り口の鋭さと先見性において評価されるべきだと感じる。
『ソドム120日』で語られる放蕩の120日が始まる前の、いわば序章部分の翻訳。4人の非道哲学者は、語り部にさまざまな放蕩を語らせることによって、人間のあらゆる情欲を分析しようと試みる。その方法はもちろん、経験論に基づく実践、つまりサディスティックな饗宴ということになる。原稿を紛失した際、サドが「血の涙を流した」ことからも分かるように、この作品には彼のすべてがあるといっても過言ではない。「すべてを言」おうとする百科全書的精神、ひとを寄せつけない舞台装置としての城、延々と反復される哲学論議と饗宴の描写、語られる美と描かれる醜、数字への偏執的なこだわり、などなど。本書は抄訳だが、こういったサド的世界の雛型として十分に通用する部分が訳されているので、サド入門として恰好の一冊と言えるだろう。 澁澤節がよほど嫌いでない限りおすすめです。
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