この本の大変面白い処は戦時中アメリカ人が敵国である日本を分析していることである。普通、文化や歴史を研究するとき、それは「その国が好きだから研究しています」という動機があると思う。然し、この本が特異であり異常である点は太平洋戦争中に分析されたものである(1944.6から研究を開始している)ため日本による真珠湾奇襲攻撃や日本によって殺されたアメリカ人が当然身の回りに居るので、日本に対する憎悪や偏見、差別感情こそあれ、日本を愛しているので研究することなど不可能だと思うし、日本を客觀的に公平に分析することすら難しいことであると思う。にも拘わらず、ルース・ベネディクトの日本に対する分析は迚も客観的であり、文章から戦争に対する日本人に対する恨みの感情は全くない。それにどことなく日本人を理解しようとする努力と愛が感じられるのである。今現在読んでも全く違和感を感じない処かどの様な日本に対する分析よりも1948年に出版されたこの本の方が非常に良く日本を理解していると思える。戦時中でありながらこれだけ客観的に敵国の分析を行えるというのは日本にはない、アメリカの力であると思う。同じ時期に日本はと云えば、鬼畜米兵とメディアに扇動され、軍部は暴走し、強硬で暗殺やクーデタを臭わせ、アメリカに対して冷靜に客觀的に分析を行える人は殆ど居なかっただろう。それに若し日本で敵国アメリカを分析せよと命じられ、正直に分析し、アメリカを贔屓したりアメリカの美点等を並べたりして政府に提出したら忽ちの内に「おまえは非国民だ、アメリカのスパイだ!」と非難され、失脚する羽目になるため、ルース・ベネディクトの様な公平な分析は迚もじゃないけれど日本では行えなかっただろう。この点、アメリカは日本よりも格段に優れていたと感じる。然し、同時に裏を返せばこの『菊と刀』が世界に於ける殆ど初めての包括的な日本に対する分析であるため、この本が出版される迄、アメリカを始め世界は殆ど全く日本を理解していなかったという事実も恐ろしい。
『菊と刀』というタイトルも大変興味深く含蓄がある。新渡戸稲造は『武士道』の中で武士道は桜の花の様に日本固有のもので日本人の心の中に自然に存在すると説明したが、ベネディクトは桜ではなく菊を日本人の象徴として選んだのである。菊は一見すると自然に見えるが、花弁は内側から針金で矯正され品評会に出品するために人工的に矯正されている、日本人の奇異な礼儀作法や習慣も一見すると日本人固有の自然な動作に思えるが、実は幼いときから綿密に教育されているのだと説明しているのである。新渡戸が桜=自然と主張したのに対し、ベネディクトは菊=人工的を日本人から洞察したのが大変面白い相違である。或いは新渡戸は男性の感性で日本男児=桜、ベネディクト女史は女の感性として日本人女性=菊と分析したのかも知れない。
刀の象徴も大変意味深いものである。日本では
明治維新爾来廃刀令に依って刀を身に付けなくなったのだが、日本人は刀を失っても心の中で常に帯刀し、心の刀が錆び付かないように研いでいた。敗戦後も日本人は無条件降伏=武力をアメリカに差し出し廃刀令のような状態にある、然し降伏後の日本は廃刀令後に武士道が日本人から失われなかったように非武装の平和国家として迚も期待が持てるだろう
という思いを刀に象徴しているのである。
『菊と刀(1948)』以外に僕が日本を理解する上で面白かった本を挙げると、『武士道(1900)』『東京に暮らす(1937頃)』『タテ社会の人間関係(1967)』『甘えの構造(1971)』『ザ・ジャパニーズ(1977)』『ジャパンアズナンバーワン(1979)』『人間を幸福にしない日本というシステム(1994)』『国家の品格(2005)』である。是非御覧下さい。冗長になったが、最後に、ルース・ベネディクトは1948年に亡くなり一回も日本に来日する事なくこの世を去ったが、これだけの分析をした後に是非とも日本に来たかっただろう、大変惜しいなと思う。