この本はダンジョンズ・アンド・ドラゴンズ3.5エディション用のサプリメントで、沢山の選択ルール(variant rule。変形ルールの方が近いかも)が収録されている。
この本の選択ルールには、通常のD&Dキャンペーンに簡単に組み入れられるもの(たとえば種族バリアント、クラスバリアント、欠点、評判、人脈ルール等)やD&Dルールを一部改変してしまうもの(技能システムバリアント、ダメージ減少アーマー、呪文ポイント制、ヘックス戦闘等)、根本的にD&Dを変えてしまうもの(二つのクラスを混ぜてしまうゲシュタルトやd20の代わりに3d6を使ったり…)がある。欄外にはデザイナーの個人的なハウスルール提案(例えば「ハーフエルフは弱い! 誰も選ばない! だから技能ポイント+1してみよう」)があり、各デザイナーの好みが見えて面白い。
他のサプリのように、「全内容をキャンペーンで採用」と言った使い方が不可能なのでコストパフォーマンスが低く感じられるかも知れない。しかし自分のキャンペーンに合うようにDMGの選択ルールを取捨しているDMにとっては非常に面白い本であると思う。
光文社古典文庫の訳ダメで、下巻からこっちに乗り換えた、
「嵐が丘」は冒頭の部分で訳のよしあしがわかる、
「This is certainly a beautiful country!」
これをいちおう無難に訳してあるのは
新潮版だけだった
「それにしてもこの土地は美しい」(光文社)
「ここはほんとうに美しい土地」(角川) 」
これらは間違い、
岩波の新訳も見た、そのまま平易に訳してあるが、解釈を入れていないから、物足りない、もう少し思い切って味をつけないと(翻訳者にとって)翻訳をする意味がない、
(岩波の新訳は、以下に指摘した箇所でも、無難といえば無難、逃げといえば逃げ、突込みが浅い)、
「さても麗しの郷ではないか!」(
新潮)
最悪と評されているこの訳はいいと思う、
この場面、実は語り手が目の当たりにしているのは、荒涼とした風景、
美しくもなんともない、
それを「美しい」と宣言する理由、
人嫌いの語り手が、人付き合いするのは一人だけで、そいつは自分と同類なのがわかった、だから、気分がいい、荒涼とした風景も美しく見えるというもの、
つまり、語り手は冒頭で皮肉を一発かましている、
それを読み取れないと、「嵐が丘」のつかみを外してしまうことになる、
光文社版の「それにしても」では、人間嫌いとは独立させて「美しい」と言っているので、作者の意味とは反対にズバリ「美しい風景だ」と言っている、人間嫌いとの連携を完全にしくじっている、目立たないがこれは重大な誤訳、
「嵐が丘」はたいした作品ではない、名作とは名ばかり、あとで詳しく書くかもしれないが、小説としては構成が壊れている、作者の一人よがりの一種のプロレス、作者があんまり天然でヒステリックなので、ところどころ読めるところがあるという程度、
だが、冒頭の部分だけは名作の名に恥じないとおもう、
「人嫌いの語り手」でなければ、そもそも壮大なヒースクリフのストーリーに関心を持つはずはない、その感情移入があってはじめてお手伝いの非現実的な長話にも耐えられる、
ここをしっかりと刻み付けないと、ただでさえおかしなストーリーが、もっとおかしくなる、
とにかくまず冒頭で皮肉が聞こえるように訳さないとダメ、
新潮版は翻訳者なりに問題を解決した、その意味でまともな「嵐が丘」の翻訳は今のところ
新潮版だけということになる、
その他、
8章
「遊び友達にけちをつけられてもかまわないかのように、ヒースクリフの気持ちに無関心ではいられないからです」(光文社)
「まさか知らんぷりというわけにも行きません。遊び相手が軽んじられてもどうってことない、なんて顔はできないわけです。」(
新潮)
光文社の訳だと、「遊び友達にけちをつけられてもかまわない」と無関心でいるのを是認し、「ヒースクリフの気持ちに無関心ではいられないからです」と否定し、一文で矛盾が生じている、
ここは英文だから一度の否定でかまわないので、日本語にする場合は、両方とも否定をかけないと意味が成立しなくなる、
新潮版は「というわけにも行きません」と否定し、文を分けて「できないわけです」と二回否定を重ねている、これが正しい、
光文社版でも、「、」をはさまなければ、誤訳とはいえない、適切な訳にいちおう入る、なぜ切ったかといえば、読みやすさを考慮してのこと、
一般の読者を相手に「読みやすさ」を優先するととんでもないことになるという見本、
15章(下・1章)
「you know that I could as soon forget you as my existence! Is it not sufficient for your infernal selfishness, that while you are at peace I shall writhe in the torments of hell?」
「おれはお前のことを忘れるくらいなら自分のことを忘れたい。お前は身勝手だから、自分は安らかに眠っていながら、おれは地獄の責め苦にもだえているだけというのではまだ不足なのか(光文社古典文庫)」
「きみのことだけはどんあことがあっても忘れないってことも、知ってるはずだ!きみが平和に眠っている間に(中央公論)」
最初の文、両方とも誤訳とはいえないが、簡単にまとめすぎている、
ここはヒースクリフの葛藤が現れている場面で、
嵐が丘のなかでは良く書けている場面、
もともと原文自体がストレートなもの言いでないのは、ヒースクリフの屈折した内面を表現しようという筆者の意図があるため、だから平明に訳してしまうと、
二枚目スターの台詞になってしまう、
ヒースクリフはあくまで悪役に徹している、人聞きの悪い言葉を選んで話している、悪役の台詞まわしが必要になる、ちょっと聞いただけでは意味がとりにくいほうがいい、
次の文の「at peace」の解釈は、両方とも間違い、
「安らかに眠って」いるとすれば、この直後のキャスの「そうじゃない!」というはっきりした否定と呼応しない、「平和に眠っている」これはもっと悪い(日本語として「平和に眠る」とはどういうことを指すのか?)
ここはキャスの返しから判断して、「(横になって)楽な状態でいるお前」と「苦しみばかりの俺」という対比、そこに生死の問題がからんでもいる、だが、それは前にすでに言及しているから、死そのものではなく、現状の認識と限定的に考えていいだろう、
「おまえを忘れるぐらいなら、自分が生きてることすら忘れちまうさ、そうだろ! どこまでふらちなわがままをいえば気がすむんだ? おまえがのうのうとしているときに、俺が地獄の拷問にのたうち回るぐらいじゃ足りないのか(
新潮)」
これが良訳といえるかどうかはともかく、ヒースクリフの内面は出ている、
ひどいことをいいつつ、「愛の告白」でもあるので、そう了解できるように、なんとかして訳を工夫する必要がある、その点、
新潮版は突込みが一段深くなっている、
最初の文は、
「いっそ死んで(自分の命と引き換えに)手っ取り早くお前を忘れちまえればいいが」
次の文は、
「(貴婦人気取りで)お前はラクしてばっかだが、俺は」
くらいの感じだと思う